猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

澤田典子『アテネ民主政』講談社選書メチエ、isbn:9784062584654

 再び古典時代ギリシアものです。
 アテネアテナイ、アテーナイ)がクレイステネスの改革で「民主化」してから、マケドニアアレクサンドロス(アレクサンダー)大王の後継者争いに巻きこまれてその民主政治が終わるまでの時期を、それぞれの時代の代表的政治家の伝記を連ねることで語った本です。
 この本はアテネ史そのものの本ではないというのが作者の立場ですが、その8人の政治家の伝記を続けて読めば、民主政治の時期のアテネの歴史がよくわかるように書かれている本だと思いました。王朝時代の中国の「正史」は、皇帝の伝記「本紀」を連ねることで王朝の歴史の「本筋」を描き、臣下の伝記や社会制度の記述でそれに肉付けするという形式(紀伝体)で書かれている。それになぞらえて言えば、この本は民主政治時代のアテネ史の「本紀」に当たるのだろうと思います。民主政治だから、皇帝ではなく、民主政治家がその歴史の「本筋」を担うというわけです。
 しかし、その民主政治家たちの生きかたというと、もう「壮絶」とか「凄絶」とかいうしかない生きかたです。
 最初に出てくるミルティアデスなど、マラソン競技の起源として有名なマラトンの戦いを勝利に導いた中心人物です。強大なペルシア帝国軍を打ち破り、アテネを守り抜いた。それでミルティアデスはアテネ防衛の英雄として市民に栄誉をもって迎えられる。ところが、その翌年、次の遠征に失敗して帰ってくると、「この遠征で市民を金持ちにしてやると言ったのに、その約束を守らなかった。したがって市民をだました罪」ということで裁判にかけられる。死刑が求刑され、判決は、著者の現代換算で30億円というとんでもない罰金刑となります。けっきょく、それが払いきれずに獄につながれ、そこで病死という末路をたどります。
 ミルティアデスにつづくペルシア戦争の英雄は、再度進攻してきたペルシア軍をサラミスの海戦で撃破した指導者テミストクレスです。このテミストクレスも、ミルティアデスほど劇的ではないものの、アテネを追放され、最後は宿敵ペルシアに亡命して一生を終わる。
 それどころか、ペルシア戦争の後にアテネがスパルタ(ラケダイモン)と戦ったペロポネソス(ペロポンネソス)戦争の末期、アルギヌサイの海戦という戦いでは、アテネ海軍が劣勢のなかスパルタを撃退したのに、海戦後の嵐での不始末を問われて指揮官たちが死刑にされるという理不尽なことも起こっています。
 政治指導者になったらまず畳の上で死ねない。アテネの民主政治というのはそういう凄まじい場だったんですね。いや、古代のギリシアですから、もともと畳はないと思うけど。

アテネ史・古代ギリシア史の意外な側面

 その本筋の部分以外でも、この本は古代アテネ史・古代ギリシア史の、私がこれまで知らなかった側面をいろいろと明らかにしてくれます。
 まず、アテネの民主政治というと、男性市民のだれもが投票権を持った徹底した直接民主制というのがたてまえです。そういう前提で議論されることが多い。
 ところで、アテネの民主政治がいちばん「輝かしかった」時代とされるのは、普通、前508年のクレイステネスの改革から前429年の政治家ペリクレスの死までだろうと思います。本書にも出てくるペリクレスは、アテネ民主政治を代表する政治家とされ、その戦時の戦没者追悼演説は民主政治の理念をよく表したものとして有名なんだそうです。近代で言うと、同じく戦没者追悼演説で民主主義の理念をうたいあげたリンカーンのような立場なんでしょうか。ペリクレス時代の後は、普通は、無責任に民衆を煽る「デマゴゴス(デマゴーグ)」たちの時代になって、民主政治は衰退するとされます。もっともこの本ではデマゴゴスの登場で民主政治が衰退したという見かたは採っていませんが。
 ところが、このクレイステネス改革からペリクレスの時代までは、この本によればまだ名門貴族の時代なのだそうです。また、名門貴族の時代が終わっても、政治指導者になれたのはやはり富裕な市民だけだったといいます。なぜかというと、当時のアテネには政治家に給料がなかったから。政治に携わるというのは「持ち出し」なんですね。だから名門貴族かカネ持ちしか政治指導者になれない。で、せっかく「持ち出し」で政治家になって、華々しい成果を上げても、何か些細な失敗があると、袋だたきにされて死刑になったり、払えそうもない罰金を科せられたり、追放されたりする。アテネ民主政治の指導者というのはものすごく割に合わない仕事です。それでもやっぱり多くの人が政治指導者を目指す。それはなぜか? ――というのがこの本のテーマです。それについては後に回しましょう。
 また、この本の特徴は、著者が、普通にいう「ギリシア史」ではなく、古代マケドニア史の専門家だということです。古代マケドニアというと、アレクサンドロス大王とか、その父のフィリポス(フィリップ)2世とかを生んだ国です。でも、普通は、そのフィリポスの治世になってようやく歴史の説明のなかに出てくる。それまでこの国がどんな国だったかはよくわからない。アテネやスパルタと同じギリシア人の国だけれど、アテネやスパルタと違って「ポリス(都市国家)」を形成しなかった国、という紹介がある程度です。しかし、この本では、フィリポス2世より前のマケドニアと、それがアテネをはじめとする「ポリス社会」にどう関わったをていねいに追っています。
 それによると、マケドニアアテネの海運業や海軍にとって欠かせない船用の木材の供給地だったということです。アテネの覇権は海上制覇にかかっているのだから、船がないとどうしようもない。だからマケドニアとの関係は重要だということになる。しかも、アテネは、マケドニアに頼らない独自の木材供給ルートを開くためにマケドニアの近くに属国を樹立して、マケドニアと対立したりしている。マケドニアのほうも「親アテネ」にも「反アテネ」にもならないように距離を保ち続けている。非常に微妙な関係だったということです。でも、アテネは、本市の大きさはともかく、その支配している領域はそこそこ広いのに、船に使えるような木材は自給できなかったのだな。
 それに、アテネにとっては、黒海沿岸からの穀物供給が必要だったということで、エーゲ海にその穀物供給のための「シーレーン」を確保したことから繁栄の時代が始まっているということです。覇権国家なのに「資源小国」なんですね。ちなみに(本書には出てきませんが)、このとき「シーレーン」としてアテネに押さえられたレムノス島という島の先住民は、イタリア半島に住んでいたエトルリア人と同じようなことばを使っていたらしい。
 古典時代ギリシア都市国家(ポリス)というと「自給自足の共同体国家」として語られてきたように思います。でも実際はそうではない。さまざまな物資の交易のなかで成り立つ社会だったわけです。
 もう一つ、この本で印象的だったのは、アテネにとっての「外交」の重要さです。ペルシア戦争からペロポネソス戦争に至る時期のアテネでは、外交には「親スパルタ‐反ペルシア」か「親ペルシア‐反スパルタ」しか選択肢がなかったそうです。覇権国と見えながら、西アジアの強国ペルシアはともかく、同じギリシアのポリス世界のスパルタとの関係にも常に注意していなければならなかった。覇権国だけど、「自立外交」ができたかというと、そうでもない。そして、テミストクレスのばあいなど、民主政治の理念をめぐる争いなどではなく、この外交方針の選択が没落の原因と見られているらしい。
 あと、ペロポネソス戦争後のアテネをはじめ、ポリス社会がどうなったかということについても、詳しく述べられているのがこの本の特徴でしょう。馴染みのない時代だけあって、やっぱりなかなか時代像が掴みづらいところがありますが。

民主政治ってそんなもの?

 さて、完全に「持ち出し」のうえ、苦労して多大な功績を上げても、些細な欠点をあげつらわれて非常に苛酷な刑を押しつけられる民主政治の場で、どうして競って政治指導者を目指す人たちがいたのか、です。
 著者はその理由を「名誉」だと言います。その前提として、古典時代のギリシア人は「ナンバーワン」願望が非常に強く、その社会は非常な「競争社会」だったということも指摘しています。
 私財をなげうち、ろくな死にかたができない危険を引きうけて、それでも「名誉」を求める。やっぱりそれは「ロマンチック」ではすまない凄絶な生きかただとやっぱり感じてしまいます。
 この本には出てこないことですが、その生きかたを支えていた一つの大きな要素は、古典時代のギリシア人が「死後の生」を信じていたことではないかと思う。人間の命は「この世の死」で終わりではないという感覚が実感されていたからこそ、名誉を命よりも重く考える生きかたができたのではないかと思ったりもします。「死後の生」については、ソクラテスも「パイドン」のなかで語っている(とプラトンが書いています)し、オルフェウス教の教義などを見ても、やっぱりこの時代のギリシアの人たちはその存在を信じていた。それが、後に、ギリシア文化とキリスト教が交わっていく一つの接点になったのではないかと思ったりもするのですが、そのことはいまは確証がないので、またの機会に。
 でも、一方で、この本では、功績を上げても告発されそうな危険があればすぐに亡命してしまうという指導者が何度も描かれています。しかも、スパルタとかペルシアとか、敵のところに逃げてしまう。名誉を求めてがんばるけれど、やばくなったら逃げればいいという感覚もあったのかも知れませんし、また、それが通用する世界でもあったわけです。スパルタもペルシアも「敵から逃げてきたやつだから信用ならない」というのではなくて「敵の出身でも有能な人材なら使ってしまおう」という発想だった。
 さて、著者は、アテネ民主政治の発展の過程を見たあとで、それがしだいに世襲制門閥制を打破し、有能な人材であればだれにでも開かれた制度になっていったことを、現在、私たちがアテネ民主政治の歴史に見るべき教訓として挙げています。
 でも、私は、そういう著者の本意とは別に、「なんだ。民主政治なんかいいかげんでもやっていけるんじゃないか」ということを感じました。
 ともかく、熱狂的に支持した政治家を、その翌年には言いがかり的な理由をつけて処刑してしまう。そんなのだから、人材が居つかない。大きな功績を上げたすぐれた人材でも、告発されそうだな、と思ったら、国から逃げ出してしまう。だいたい、有名人になったら、具体的に何をやったわけでなくても追放されてしまう。その気まぐれさ、その「有名人叩き」のひどさといったら、もうアテネの市民っていうのはどうしようもないなというのが実感です。
 こんな政治ならすぐに崩壊してしまいそうなものです。ところがこの民主政治は激動に耐えて180年間はつづいた。しかも、それが終わったのは、すぐ隣の地域での強国マケドニアの興隆という、アテネ自身では防ぐことのできない事態によるものです。西アジアの強国ペルシアをも倒してしまったマケドニアの力に屈したからといって、それはアテネの民主政治が弱かったからだとは言えないと思う。それに、民主政治ではないポリスもマケドニアには勝てなかったのです。
 だから、民主政治というのは、それを支える人たちが、愚劣で、気まぐれで、いいかげんでも、ごちゃごちゃはするけれど持続していけるものなんだな、と私は感じました。ちょっと希望が湧く結論だと思います。
 ところで、この本には、古典時代のアテネが成人男性市民(政治に参加できる人)の数が3〜4万人で「小さな社会」と書いてあるんですけど、それって、奴隷とかは計算に入れないにしても、市民層の女性と子どもを入れると、成人男性一人に妻一人・子一人という控えめな換算をしても9〜12万人ぐらいってことでしょ? それだと現代日本でも「市」ぐらいの規模はあるわけで、そんなに「小さい社会」とは言えないと思うのだけど。
 あと、この本は、原音主義でなく、「アテネ」は「アテナイ」や「アテーナイ」ではなく「アテネ」と書いているし、「φ」(ph)の音もパ行の音ではなくファ行の音で書いています(復古発音では古典時代はパ行に近いとされる)。私は単純にこっちのほうが読みやすくていいよね、と思います。