猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

神田千里『島原の乱』(中公新書、isbn:4121018176)

 「島原の乱」は、飢饉の年に重税を課し、納めきれない民衆を残酷な刑に処したりしたために、民衆の不満が、たまたま宗教反乱というかたちで噴き出した事件だったのか? そうではないと著者の神田さんは言う。それは、「戦国時代」の最後を飾る騒乱事件であり、また、「たまたま宗教のかたちを借りた」というのにとどまらない立派な「宗教農民戦争」であったというのだ。
 神田さんによると、「島原の乱」で乱に立ち上がった「一揆」側にとって、第一の目的はキリシタン信仰の容認を勝ち取ることであり、重税を課した領主に対する反抗は少なくとも主要目的ではなかった。また、「一揆」の主役も、「食うに困った民衆」というよりは、武士の一部であり、民衆は「一揆」と幕府・領主とのどちらかに動員されて戦う存在だった。
 そこには、福音書でキリストが見せるような「奇跡」への信仰があり、また、宗教的な終末論もあった。また、この「乱」に際して、「村」は、「一揆」側と幕府・領主側との双方に軍事力としてあてにされた。しかも、たんに動員されるだけではなく、また、その双方のあいだで、少しでも自分たちに有利なように、自分たちで判断して立ち回ろうとした。それは、戦国時代の「村」のあり方そのものでもあった(この点は神田さんの前著『土一揆の時代』isbn:4642055819れている。この本はまた別に採り上げるつもりだ)。
 神田さんは、キリスト教徒が「飢饉の年に重税」という事態に対して「一揆」に立ち上がった理由として、かつてキリシタン大名支配下にあったときには可能だった「苦しいときに神に縋る」という生きかたができなくなったことを挙げている。しかし、神田さんは、その「苦しいときの神頼み」をご都合主義的で浅薄な宗教観とは見ない。「自力」の及ぶ範囲(戦国時代の村の行動原理が「自力」である)の限界をよく知っている人たちだからこそ、まじめに必死に神頼みしたのだと位置づける。
 そして、その心性は、じつは島原の乱が起こった際に激しく対立した在来の仏教徒などとも共通していることを神田さんは強調する。その在来の仏教徒などをイエズス会宣教師は「日本宗」と呼んだ。その信仰の軸は「天道」にあった。それは、宗教原理であるとともに、政治原理でもあったのだ。たとえば、その「天道」の実現が、戦国時代の支配者の果たすべき義務とされていた。そして、その「天道」信仰を軸に、日本を「神国」と見なす考えも民衆のなかに存在したという。「神国」思想とは、「蒙古襲来」の「国難」に際して宮廷の祈祷などを背景に生まれ、やがて明治国家が民衆に「上」から教えこんだだけの、もっぱら「上」の社会のものであっただけでなく(もちろん「上」のものでもあったのだが)、少なくとも戦国〜江戸転換期には民衆自身に共有されていたものだったのだ。ただし、神田さんは、それが明治維新後の民衆の心性にまで連続していると見ることには慎重であるけれども。ともかく、その「天道」信仰の上に、一向宗とかその他の仏教諸宗派も存在したわけで、それが「キリシタン」信仰も支えていたというわけだ。
 この説は納得のいく説明である。古代ローマ帝国キリスト教を厳しく禁止し、迫害したにもかかわらず、それがどうしてヨーロッパに一挙に広がったかという説明として、4世紀ごろの地中海世界に広がった「禁欲」の倫理に注目した西洋史研究者がいる(中央公論の「世界の歴史」シリーズに出てきたのだが、どの巻だったか忘れてしまった)。この説によると、キリスト教徒を迫害して「背教者」と呼ばれるユリアヌス帝とキリスト教徒との心性はじつは似通ったものであったという。同じことが戦国〜江戸転換期の日本の民衆にも言えるというわけだ。
 神田さんは、この本で、島原の乱を、ドイツの宗教一揆やイギリスの千年王国運動(後にアメリカ合衆国成立に強い影響を残すことになる)と並行する現象としてとらえる。イギリスの千年王国運動が「進んだ」運動であり、島原の乱が「キリスト教後進地帯」で起こった「遅れた」現象であるという見かたは根拠がないと言うのだ。これはまったくそのとおりだろうと思う。何についても「日本は昔から当時の世界の第一線を行っていた」というようなことを言うつもりはない。けれど、ヨーロッパのほうが何についても進んでいたとか、ヨーロッパのほうがキリスト教の伝統は長いのだからとかいう説明も、やっぱりじつは思いこみにすぎない。西ヨーロッパの宗教改革が「旧教」にもインパクトを与えて近世・近代のキリスト教を生み出したように、日本でも17世紀ごろから「中世の宗教」が「近世の宗教」へと姿を変えていったのではないか。そういう動きに、イスラームスーフィズムの動きとか、少しあとに出てくるワッハーブ派の運動とかも含めて、「宗教から見た世界近世史」みたいなのが構想できるかも知れないとか思ったりする。
 ところで、この本によると、この時代、寺院は「駆け込み寺」として、保護を求めてきた人びと(たんに「離縁を求める妻」だけではない)の処遇をめぐって、領主などと交渉する権限を持っていたという。寺院の「無縁の場」的性格は網野善彦さんが早くに指摘されていた点だけれど、こういう機能を見ると、もしノージックが考えた「権利保護協会」のようなものがあるとすれば、この中世寺院みたいなのがそれにあたるんとちがうかいな、とか思ったりもする。ノージックの構想はあくまで宗教の介入しない世俗的なものだったけれど、現実には、そこに宗教的なものとか、網野さんのいう「無縁」みたいな「人智を超えたわけのわからない力」みたいなのとかが絡んで成長してきたのではないだろうか? ノージックの「権利保護協会→超最小国家最小国家」の過程を、現実の歴史過程とすり合わせてみるという作業も、もしかするとおもしろいかも知れないと思ったりもする。