猫も歩けば...

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准摂関家としての足利将軍家

 というタイトルの論文が『史学雑誌』(第115編第2号)に出ていたので、読んでみた(著者は石原比伊呂さんという方)。
 足利義満天皇家(「王氏」)から「王権簒奪」を図ったという話は、今谷明さんの『室町の王権』(isbn:4121009789)以来、いろいろと出ている。義満自身が「鹿苑法皇」として「治天の君」(院政を行う上皇法皇)の権力を握り、しかも、すでに将軍位を継いでいる義持とは別の息子義嗣を天皇にしようとしていたという話だ。
 で、この石原さんの論文でのまとめによると、義満が「治天の君」の権力を手にしたのは確かだけれど、足利家による天皇位の簒奪を図ったとまでは言えない(つまり義嗣を天皇にしようとしていたとまでは言えない)というあたりで落ちつきつつあるらしい。
 で、私がこの論文に関心を持ったのは、岡野友彦さんの『源氏と日本国王』(講談社現代新書isbn:4061496905)での解釈が頭にあったからだ。岡野さんによれば、足利将軍家は、天皇の地位は奪わなかったけれど、「日本国王」の「王権」は奪っていた。しかもその「王権」は足利将軍家徳川将軍家と継承されたということである。その「王権」を表現する地位が、征夷大将軍 兼 源氏長者だったというのだ。
 源氏長者というのは、天皇家(岡野さんの厳密な表現によれば「王氏」)から分かれ、姓を与えられて臣下待遇になった一族全体の最長老といった地位である。天皇家から分かれて姓を与えられたばあい、血筋が天皇家に近ければ「源」、それより遠ければ「平」の姓を与えられることが多い。源氏長者は、そのうち、「源」氏の最長老だが、岡野さんは、源氏長者は源氏・平氏あわせて天皇家から分かれた氏全体の最長老だったと主張している。なお、足利将軍家は、清和天皇(もしかするとその次の代の陽成天皇)の子孫なので、源氏に属する一家だ。
 で、その岡野説に対して、この石原さんの論文では、義満の時代に足利家は「治天の君に準ずる」という立場と「現任の摂政・関白に準ずる」という立場の両方を獲得し、そして、息子の義持以後、「現任の摂政・関白に準ずる」ほうが足利将軍家の伝統として定着していったという仮説が提唱されている。
 私は、岡野さんの「王権簒奪論」を否定はしないけれど、この「足利家は現任の摂政・関白に準ずる待遇を獲得・確保した」という説により説得力を感じる。
 源氏はいちばんステイタスの高い地位まで上がっても、藤原氏の摂政・関白家よりは下である。だから、足利将軍家が源氏長者の地位を確保して、まず目指すとすれば、いきなり「治天の君」が掌握している「王権」とかではなく、まず摂政・関白だろうという気がするからだ。
 で、「準摂政・関白」で征夷大将軍を兼任すると、対外的には日本国王として日本を代表できたのだとすれば、豊臣秀吉羽柴秀吉)が関白の地位を獲得したのも、それとの連続性で理解できるように思う。
 江戸時代の徳川家が「源氏長者征夷大将軍」でなぜ日本を代表できたかということも、「源氏長者=準摂政・関白」だとすれば「準摂政・関白」で公家の最長老の資格を得て、征夷大将軍で武士の統率者の資格を得たからと説明することもできるだろう。そこで思い起こされるのが、徳川家康内大臣になっていることである(ちがったっけ? たしか「内府」って呼ばれていたと思うけど)。で、内大臣は、「内覧」という仕事・職位を媒介にして、摂政・関白に連続する職でもある。
 では、その「現任の摂政・関白に準ずる」ステイタスから、なぜ義満のようにいきなり「治天の君に準ずる」ステイタスを主張する人物が出たのか? 義満が例外だったという解釈が一つ、岡野さんのように、天皇家(姓を持たない「王氏」)と源氏の「氏」間の闘争として解釈するやり方が一つだけど、それ以外にも可能性があるのではないかと私は感じている。私は専門家ではないので、あくまで「感じ」だけど。
 摂政・関白の権威・権力はどこから来ているかというと、天皇からの「王権」の部分的な分与みたいなもので成り立っている。ところが、院政の開始で、その天皇の「王権」を、天皇家の最長老である「治天の君」が握ることになる。では、摂政・関白が任命されなくなったかというと、そんなこともなく、しかも摂政・関白がただのお飾りになったかといえば、それなりの権威・権力は握りつづける(それが摂政・関白としての権力なのか、兼任している太政大臣その他の「大臣」の権力なのかは……どうなんでしょう?>専門家の方)。こうして、日本の「王権」は、天皇を中心にして、治天の君とか摂政・関白とかにぼんやりと星雲状に広がってしまったのではないか。「王権」のなかの最高権威は治天の君が握っているけれど、治天の君になるためには原則として天皇を経験していなければならず(例外はあるが)、しかも天皇の王権の代行者としての摂政・関白も存在し、一定の機能を果たしている。14世紀末になって、その星雲状に広がった「王権」の領域に参画してきたのが足利将軍家だ。義満はそのなかで準「治天の君」になろうとしたけれど、義持以降の将軍は準摂政・関白の王権を選択し、けっきょくそこに落ちついたということではないのだろうか。なぜ義持以後の歴代将軍が準「治天の君」にならなかったかといえば、たぶん「治天の君」としての「最高王権」と呼ぶべきものは必要ないことが判明したからだろう。「準摂政・関白」兼「征夷大将軍」で日本の政治・軍事上の実質的な主導権は確保でき、対外的にも「日本国王」として承認される。「治天の君」の「最高王権」を実質を伴わない儀礼的なものに封じこめ、自らは「準摂政・関白 兼 征夷大将軍」で王権の一部を行使し、対外的にも日本を代表していれば十分と考えたのではないだろうか。
 では、なぜ義満が準摂政・関白で満足せず、準「治天の君」まで高望みしたのかということだけど、これはやっぱり「ポスト建武の新政」・「ポスト南北朝」という状況を考える必要があるのではないかと思う。
 建武の新政では、「治天の君」制度も摂政・関白制度も見直され、天皇の一身に王朝貴族・武士を動かす実質的権力を集中する制度の確立が目指された。というか後醍醐天皇がそういう抜本的改革を目指した。けっきょくそれが失敗して南北朝の対立になる。しかも、北朝側では、王朝自体の再建と室町幕府体制の確立の試行錯誤が同時進行した。室町幕府の創建者の足利尊氏南朝側についたり、その結果として南朝優位の統一が実現しかかったり、それが破綻して北朝側の上皇と皇太子が南朝に拉致される事件が起こったり(観応の擾乱〜正平の一統事件)して、混乱を極めている。その影響で、北朝では、摂関家(摂政・関白を出せる藤原氏の一族)出身の広義門院寧子が「治天の君」権力を行使して新天皇を即位させるという非常事態も起こっている(今谷明さんが義満の「王権簒奪」の前提として重視している事件だ)。そういう状態のなかで、王権の再建、中央政権の再建が模索されていた。今谷さんのように「だから義満は王権簒奪を実行し、やがては天皇位簒奪を目指していた」と論じるかどうかは別として、建武の新政以来つづいた「王権はどうあるべきか、政治の最高指導権はどうあるべきか」という模索の一つの結論が、義満の準「治天の君」の地位の獲得、息子義嗣の親王待遇の実現だったのは確かだろうと思う。
 また、義満が認めていたかどうかは別として、いちおう義満の前任の「日本国王」(として中国王朝=明が認めていた人物)は、後醍醐天皇でも後村上天皇でもなく、「征西将軍宮」の懐良親王だった。その後継者として日本を代表するためには、やはり「日本国王」は国内で最高王権を握ったほうが好都合と考えた可能性がある。でも対外関係がそんなに重要だっただろうか? これはなんとも言えない。でも、日本史ではあまり重視されないみたいだけれど、年表を見れば、義満主導で「南北朝の合一」がなし遂げられた1392年は、朝鮮半島では朝鮮王朝(李氏朝鮮)が樹立された年にあたる(王朝樹立後もしばらく国内情勢は安定しないけれど)。この朝鮮情勢の変化のインパクトが義満を「国内で最高王権を掌握、対外的に日本国王」という選択に導いたのかも知れない。しかし、その後の国内・国際情勢を見れば、「治天の君」の「最高王権」自体は不必要ということがわかってきたのかも知れない。
 ただ、南北朝時代というのが特異な時代だっただけに(王統の「両統迭立」そのものはこれが最初ではないが)、そのどの特徴を捉えて「ポスト南北朝」を考えるかでいろんな解釈が出てきてしまう。何が「ポスト南北朝」かを考えるためには、摂関政治期〜院政期〜承久の乱までの鎌倉前期〜蒙古襲来の時期までの中期〜持明院統大覚寺統両統迭立が確定する鎌倉後期までの「王権」のあり方を、その変化面にも注目しながら、連続的に整理してみる必要があるのではないだろうか。もちろん、その際、「治天の君」・摂関家鎌倉幕府から在地の武士まで、その生活にとって死活問題になっていた領地(荘園・公領)の問題の検討は欠かすことはできない。鎌倉幕府が崩壊したのも、南北朝対立につながる持明院統大覚寺統の対立も、もとはといえば、最高の荘園領主レベルから在地の武士レベルまで、領地問題が背景にあって起こった事件なのだから。また、今谷さんや石原さんが行っているような宮廷儀礼の検討も重要だろう。たぶんこの問題には専門家でもあんまりはっきりさせられていない点がまだあるのではないだろうか。ただの日本中世史好きとしては、「室町の王権」についての今後の専門家の議論に期待したいと思っていたりする。