猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

と書いたところで「マルチチュード」論

 ネグリとハートが提起している「〈帝国〉」状況にも似たような面があるのではないか。情報不足の「〈帝国〉」上層部――まあ現在はそれがアメリカ合衆国だったりするわけだ――が、状況に正確に対応できない問題解決策を出して、事態をさらにこじれさせてしまう。しかも、それを受けとめる側が、現状では分断されていて、「抵抗」が十分に組織できない。「〈帝国〉」上層部の問題解決策のどこが問題かもなかなか的確に指摘できない。
 そこで、その「〈帝国〉」に有効に抵抗できる主体として構想されたのが「マルチチュード」というわけだ。分断された垣根を超えて情報を交換し、「〈帝国〉」上層部が持ってくる解決策の問題点に対して「これはおかしいでしょ?」と的確に指摘できる人びと、というより、そういう人びとを場に応じて機動的に生み出せる人びとの巨大な集合体――それが「マルチチュード」というわけだ。
 ということは、「マルチチュード」が成立する要件はやはり「冗長性」が確保されていることだと思う。ムダと思える情報も常に掃索し抱えこんでおける余裕があること、と言ってもいい。もちろん、電子メディアの普及で、情報交換の速度は「村の寄合」なんかよりずっと向上している。けれども、「マルチチュード」が取り組まなければならないことの多さや巨大さも「村の寄合」よりはるかに大きくなっている。したがって、「マルチチュード」が変革の主体として姿を現すのに必要な要件は、やっぱり「村の寄合」で必要だったような「みんなのヒマさ加減」なのかも知れないと思う。そして、「〈帝国〉」状況にそんな「ヒマさ加減」を許してくれることを期待するのは、これもけっこう難しい。
 ネグリとハートは「〈帝国〉」権力の特徴を「生権力」的であることとしている。ネグリとハートのばあい、「生権力」ということばは、「人間を思いのまま死なせる権力+さらに人間の生まで管理する権力」という、「死権力」より一段と苛酷な権力というニュアンスで使われている。で、「生権力」は、人間の生の隅々まで管理してくるわけだから、そんな「冗長性」はどんどんつぶしてくると考えたほうがいい。しかも、それが「人びとに抵抗のいとまを与えず、マルチチュードの出現を阻む!」みたいな陰謀として展開されているわけではなく、権力主体もあいまいなままなんとなくそうなってくるというのが「生権力」の特徴なので(この「生権力」理解はネグリとハートの概念とは少し違うかも知れないのだが)、よけいに始末が悪い。「マルチチュード」の変革主体としての出現はけっこう「〈帝国〉」に首根っこを押さえられてしまっているような、息苦しい感じも私はするのである。
 それにしても「マルチチュード」なぁ。
 ……それって「震度」と違うの?