猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「マルチチュード」の「雑さ」

 ということで、昨日(id:r_kiyose:20060908)につづいて「マルチチュード」の話の続きである。
 私が「マルチチュード」論の概要を知ったのは、檜垣立哉さんの『生と権力の哲学』でだった(この本のことは id:r_kiyose:20060802 に書いた)。この本を読んだときには、「マルチチュード」というのは「雑で、粗野で、礼儀知らずで、エネルギーに満ちあふれた連中」だという印象を受けた。お澄ましした、整然とした秩序というやつを好む「〈帝国〉」に対して、荒々しく雑で粗野な「マルチチュード」という連中が挑み、その「秩序」を引っかき回す。そういう「荒々しい民衆」に期待を託するのはロマンティシズムの特徴だと思うので、それで私は「マルチチュード」論というのはロマンチックなんじゃないかと思っていたわけだ。
 ところが、今回、ネグリとハートの『マルチチュード』を読んでみて、なんかその「粗野」という印象はちょっと揺らいでいる。
 ネグリとハートの描く「マルチチュード」像には、たしかに秩序を押しつけてくる「〈帝国〉」に対して、正面からぶつかるだけでなく、混ぜっ返しやからかいやアイロニーで応じるという「お行儀の悪さ」が描かれている。たとえば、警官がデモを阻止に来たら、デモ隊の側が警官のコスプレをして混乱させるとかだ。ネグリとハートが描く「マルチチュード」的な抗議行動は、きまじめで悲壮なものではなく、運動を楽しんでしまう「祝祭」的な運動だ。『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』の「学園祭の前日」みたいな雰囲気を考えればいいのだろう。ネグリやハートが『うる星』を見ているとはあまり思えないけれど。
 でも、ネグリとハートの書いていることから感じるのは、「粗野さ」とはちょっと違う感じがするのですよね。つまり、どんなにお行儀が悪くても、その運動の標的はちゃんと「〈帝国〉」のほうに向いている。間違っても、内部で傷つけあったりとか、自分たちを支えている背後の人たちに向かって弾を撃つとか石を投げるとか、そういうことはしそうにない。それは「荒々しい民衆」というのとはちょっと違うと思う。「荒々しい民衆」というのは、内部で傷つけあったりとか、敵対者であろうが支持者であろうが見境なく攻撃するとか、そういうものではないだろうか。
 あるいは、そういう「荒々しい民衆」は、なんかふとしたきっかけで権力側に転んでしまうこともあるし、権力に利用されることもある。フランス革命ヴェルサイユ宮殿に押し寄せた群衆が、国王だったかマリー・アントワネットだったかが挨拶したら、「国王陛下万歳!」と言い出したとかいうエピソードもある。また、そういう「荒々しい民衆」の「操作されやすさ」を描いたものとしてよく引き合いに出されるのが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のアントニオ(アントニウス)の演説だ。群衆は、最初はブルータス(ラテン語読みでは「ブルートゥス」)の演説を聴いて「シーザー(カエサル)を殺したのは正しい」と思っていた。ところが、その群衆は、そのあとでアントニオの巧みな演説をきいて「シーザー暗殺犯許すまじ」と興奮してしまい、で、通りかかった詩人がたまたまシーザー暗殺犯の一人と同名だったのでその詩人をぶっ殺してしまう(これは史実らしい)。このシーザー殺しのあと、シーザー暗殺者たちが敗れ、ローマは皇帝制へ移行する。つまり、ローマの「荒々しい民衆」は、「〈帝国〉」の原型である「帝国」の成立にむしろ加担しているわけだ。
 「マルチチュード」の運動が「〈帝国〉」を強化してしまうような動きになることはないのだろうか?
 「マルチチュード」の運動が「〈帝国〉」に標的を集中できるとネグリとハートが考える一つの理由は、それが期間限定・目標限定の運動だから……なのかな? つまり、「マルチチュード」という「多数の多様な民衆」はいつも世界じゅうに存在しているのだけど、そのみんながいつも変革のために闘っているわけではない。たとえばソ連共産党体制下の「人民」とかとはそこが違う。ソ連の「人民」は、共産党の指導に従って、共産党の掲げる目標に向かって常に闘っていなければならない存在だった。一年じゅう、一日一日が「キャンペーン」の日々だった。「マルチチュード」はそうではない。ふだんは多様な生活を送っていながら、何か自分の関心のある問題が起こると、その「マルチチュード」の一部が連絡を取り合って集まってきて、それで「〈帝国〉」に対して抵抗運動をやる。終わればまた多様な生活のなかに散っていく。そういう動きが、世界じゅうで、散発的に、でも絶え間なく起こっている。一つ一つの運動は期間限定・目標限定の運動で、それに参加する人の数も「マルチチュード」全体からするとごく一部なのだけど、それがあちこちでいつも起こっているものだから、全体として「マルチチュード」の変革運動が進んでいることになる。ネグリとハートはそんな像を描いているのだと思う……んだけど、これってまちがい?
 もう一つ、ネグリとハートは、現在の「マルチチュード」は、ネットを介して情報を交換しているので、一か所に集まってブルータスの演説のあとにアントニオの演説をきいて、それだけの情報で行動を決めてしまったローマの愚民たちのような行動はとらないだろうと考えているように思う。でも、ネットに流れている情報というのはまさに多数で多様なわけで、それを何の選別もせずに受け入れているとわけがわからなくなる。けっきょく、シーザー暗殺後のローマと同じで、アントニオの演説のように効果的に感情を煽る情報の影響力はかえって増しているように私は思う。このへんは北田暁大さん(id:gyodaikt)が『嗤う日本の「ナショナリズム」』の「感動ブーム」の話のところで書いている通りだろう。
 というわけで、「マルチチュード」は、「〈帝国〉」に打撃を与える運動もするし、自分たちを傷つける運動もするし、内部闘争(「内ゲバ」)もやるし、本来なら自分たちの利益になるはずのものを破壊したりもするし、自分たちの支持者を攻撃したりもする。「マルチチュード」とは「多種多様な人々」であり、その多様性を失うことを求められない存在だとネグリとハートは言う。なのであれば、むしろ「マルチチュード」とはそういう自滅的行動や利敵行為(つまり「〈帝国〉」を支持し強化する運動)もいっぱいやる者たちだと考えたほうがいいんじゃないだろうか。だからこそ、ホッブズは「マルチチュード」が「マルチチュード」のままではダメで、社会契約を結んで政治体を構成しなければいけないと言ったわけだ。
 そういう「粗野」なマルチチュードが変革の主体になれないというわけではない。ヴェルサイユで民衆が「国王万歳」と叫んでも、まあ革命は起こったわけだし、マルクスが「ルンペンプロレタリアート」の規律のなさと無節操さを憎んでも労働者階級は有力な政治勢力にはなっていった。
 でも、ネグリとハートの議論は、「マルチチュード」のお行儀のよいところに注目しすぎているように私には思えるんだけど、どうなのだろうか。