猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

マルチチュード論はアナーキズムか?

 柄谷行人さんは『世界共和国へ』(岩波新書isbn:4004310016)でネグリとハートの「マルチチュード」論を批判していた。
 今回、読み直してみると、柄谷さんの批判は、ネグリとハートの「マルチチュード」論は、プロレタリア革命論のプロレタリアートを「マルチチュード」に置き換えたに過ぎないもので、その国家廃棄論はプルードンアナーキズム(柄谷さんは「アナキズム」と書く)の過ちを繰り返すものに過ぎない、ということだ。
 しかし、ネグリとハートは、『マルチチュード』で、自分たちの「マルチチュード」観はアナーキズムではないと書いている。
 私は柄谷行人ネグリやハートほどものを読んでいるわけでも知っているわけでもないけれど、両方の本を読んでみると、どちらの言い分にも半分賛成で半分反対というところだ。でも、少なくとも柄谷さんの本については、ネグリとハートをまじめに相手にするのであれば、もっとちゃんとその書いていることを批判しないとダメなんじゃないかと思う。
 柄谷さんの主張の根本は「国家は廃棄できない」ということだ。それは国家主権とは「他の国家」に対して存在するものであるという認識に立脚している。だから、一つの国家内部で革命とかを起こして国家というものをなくしたとしても、他の国家に対して「国家のない国家」を防衛するために「国家のない国家を防衛する機構」を拵えなければならない。それはつまり国家にほかならない。また、国家共同体内部でたとえ国家主権というものを廃棄したとしても、他の国家に対して「国家主権のない国家」を防衛するための主張を持たなければならない。それは「国家主権」の主張にほかならないだろう。したがって国家は廃棄できない。大ざっぱにまとめるならばそういうことだろうと思う(柄谷さんの主張はそれだけではなく、交換様式の話とかが絡むのだけど、長くなるので省く)。
 それはソ連をはじめとする社会主義国家の社会主義国家としての失敗(つまり社会主義国家自体が存続していても実質は「資本主義国家+国家統制」国家になったら「失敗」)を見れば明らかなことだ。
 ただ、ネグリとハートは、はっきりと、自分たちの主張はアナーキズムとは異なっていると書いている(邦訳では下巻の65〜66ページ)。また、ネグリとハートの発想は、柄谷さんの世界政治論とは前提が異なっている。
 ネグリとハートが言う「〈帝国〉」とは、世界全体をネットワークとして含みこんでいて、その「外部」を存在させないような存在だ……ったはずだ。いや『〈帝国〉』まだ読んでないからわかんないんですけどぉ、だって分厚いしぃ。
 このネグリとハートの「〈帝国〉」論に対する柄谷さんの批判は、国民国家を超えた巨大な構造は、EUのような「スーパー国民国家」(「広域国家」)であって、「想像(+創造)される共同体」としては国民国家と同一のものであり、したがってそれは国民国家や旧来の「帝国主義」を超えてはいないというものだ。
 これは大きくすれ違っているように私は思うんですよね。
 ネグリやハートはEUのこととかを言いたいわけではなくて、ネットワークでつながった地球全体に単一の「〈帝国〉」が成り立ちつつあるということ、そして、その「〈帝国〉」のなかで、国民国家は、じつは見かけとは裏腹に選択肢を失いはじめているということだ。「〈帝国〉」のなかでは、超大国・超強国の単独行動主義を採っても、それに代替するという触れこみの多国間協調主義を採っても、そこで選択しうる行動の範囲はじつは非常に限定されている。だから、「〈帝国〉」の抱える問題は、「〈帝国〉」自身では解決できないのだ。そういう議論である。柄谷さんは、この単独行動主義・多国間協調主義の限界についてのネグリとハートの議論は紹介しているけれど、その前提をきちんと紹介していないように私には読める。
 また、柄谷さんは、ネグリとハートの主張について、「ほんとうの民主主義」(ネグリとハートはそれを「全員による全員の支配」と表現するわけだが)が可能な「真実社会」が存在すると想定しているとし、それはプルードンの過ちを繰り返すものだと非難している。つまり、ネグリとハートは、プルードンなどのアナーキストと同様に、人為的な政府とか支配構造とかをぜんぶ撤廃したら、人間本来のよい性格が発揮されて、平和で民主的な支配が実現すると主張している、と柄谷さんは非難しているわけだ。
 この論理には、ソ連など実在の社会主義国の失敗の理論的原因は、その「国家主義」(たとえばスターリンの「一国社会主義」など)の強さではなく、逆に、国家を甘く見すぎたこと、国家は廃棄できるとかんたんに考えたことにあるという柄谷さんの批判から出てくる。その論理は私にはよくわからないのだが、ソ連などの社会主義は「国家」がかんたんに廃棄できると考えたために、かえって社会主義実現の「手段」として国家機構を安易に活用しすぎてしまったということだろう。その結果、膨大で強権的で非効率な国家機構(とくに官僚機構)が出現し、社会主義社会が実現しても(実現したとその国家が認定しても)国家はいっこうに消え去らないどころか、モンスター化したまま居すわることになってしまった。この失敗は、マルクスプルードンの悪しき発想を受け継いでしまったことから始まっているというのが柄谷さんの批判である。だから、ネグリとハートの「マルチチュード」論も、実践に移してみるとやっぱりモンスター的強権帝国を作ってしまうほかないだろうというのだ。
 批判の論理としてはそれはそれでわかるのだが、しかし、ネグリとハートは「真実社会」が現存しているとは書いていない。少なくとも、私はそんなものが自然に存在しているという発想は明確に否定しているように読める。
 ネグリとハートは、その「真実社会」、つまり「全員による全員の支配」という意味での民主主義に向かうために必要な条件が、世界のネットワーク化のなかで整えられてきていると論じているのだと私は思う。平たくいえば、ネットワークで結ばれた地球上のすべての人間が情報を交換し、知恵を出し合う場所を、ネグリとハートは common と呼んでいる。
 この common の訳語がまたやっかいだ。邦訳では「〈共〉」と訳し、commonality を「〈共〉性」と訳している。いいんだけど、common には「共通の」とか「共有の」というほかに「庶民の」という語感がある(「コモン・センス」は「常識」であるとともに「庶民感覚」でもある)。「一般人」としての「コモン」という概念と「多様な多数の人びと」の意味の「マルチチュード」とはそういう語感でもつながっている(のだと思う)。そういうところが「〈共〉」では伝わりにくい。個人的には、近代より前の社会で「村のみんなの共有地」みたいな感じで存在した「入会(いりあい)」というような概念を使うといいんじゃないかと思うんだけど、「入会」も「入会地」も私たちにとっては縁遠い存在になってしまったから、まあ無理かなとも思う。とりあえず「共有の場所」とか言っておくことにしよう。
 「マルチチュード」を構成する多様な多数の人びとの一部が、この共有の場所から自分たちの思想や運動の素材を取り出し、その成果物をその共有の場所に返す。すると、次には、別の一部の人たちが、前の人たちの成果物が加わった共有の場所から素材を取り出して、自分たちの思想や運動を組み立て、それをまたその共有の場所に返す。ソフトウェアのオープンソースの運動とか、フリーソフトの思想とか、そういうのを下敷きにした発想だ。そういう動きが、「マルチチュード」に属する世界じゅうのあらゆる地域の人びとによって、多様な目的のために、絶え間なく行われる。
 そのことによって「マルチチュード」は自ら組織化を進めていく。それはたった一つの組織への組織化ではない。「多様な多数の人びと」である「マルチチュード」を基盤に、「共有の場所」を媒介にして、「多様な多数の組織」への組織化が進んでいく。基盤となる人たちが多数で多様なように、その上に成り立つ組織もやはり「多数で多様」なのだ。多様な多数の人びとが発展させる多様な多数の組織の絶え間ない発展によって「全員による全員の支配」という意味での「絶対的民主主義」実現への道が切り開かれる――というのがネグリとハートの考えである。
 これは、やっぱり、最初から「絶対的民主主義」が存在して、それが資本主義とか国家とかの「悪しき制度」によって覆われているのだから、資本主義とか国家とかをなくしてしまえば「絶対的民主主義」が実現するという主張とは違うだろう。
 ネグリとハートの構想の根本は、世界を覆う情報や物流のネットワークが出現してしまったことで、そのネットワーク上に単一の「〈帝国〉」というものが出現し、他方で、同じネットワークを基盤に変革主体としての「マルチチュード」の出現を可能にする条件も整ったというところにあると思う。その「〈帝国〉」は現在の国民国家ではコントロールしきれなくなっている。超強国の単独行動主義でも多国間協調主義でも「〈帝国〉」全体が抱える問題は解決できない。それに対して、「マルチチュード」は「共有の場所」を通じて知識や経験や思想や運動の成果を蓄積していくことができる。その蓄積によって、「マルチチュード」の問題解決能力はいつかは超強国や多国間協調を上回るに違いない。ネグリとハートの基本構想はそういうことなんだろうと思う――たぶん。
 ネグリとハートが言っている「〈帝国〉」というのは、具体的にどの国というものでもなくて、「地球全体で起こっている現象とか状況とか」のようなものなのだけれど、柄谷さんは、それを批判する際に、それを「アメリカのことだろう」とか「EUのことだろう」とか「世界市場のことだろう」とかいうようにいつも性急に地球上に実在しているもの・実在したものへと引き下げる。そしてネグリとハートは何ら新しいことはいっていないというほうに批判を向けてしまう。しかし、私には、むしろ、ネグリとハートが主張しているのは、柄谷さんが理想として「アソシエーショニズム」ということばで主張している「互酬に基づく交換」という概念に近いように感じられる。
 じつは、ネグリとハートの議論には国家論が欠けているという柄谷さんの批判には私は全面的に反対ではない。ただ、「多様な多数の組織による多様な多数の人びとの支配」はどう考えても柄谷さんの批判するようなモンスター的強権国家をもたらすとは思えない。むしろそんなものが実現したら逆にアナーキーな状態が出現するんじゃないかと思う。そこでその多数多様な組織のなかから「支配的保護協会」というのが成長して……とかいうほうに話を持っていくと話がノージックリバタリアニズムみたいな方向に行く(そのリバタリアニズムネオコン思想みたいなのを生んでさらに現在のアメリカ合衆国を再現させる、と、そこまで話を延ばせば、モンスター的強権国家が再現するのかも知れないけど)。そういう方向もやっぱり検討してみるべきだろうと思うけど、いまはやめておこう。だってノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』ってよくわからないんだもん。ただ、ネグリやハートは怒るかも知れないけど、「マルチチュード」論ってノージックリバタリアニズム論にも意外と近いところにある議論なんじゃないか、という気はしたりもするんですね。違うかも知れないけど。
 でも、新書版という制約があるからかも知れないが、ネグリとハートが依拠している基本構想全体をきちんと紹介しないで、で、「われわれはこの種のアナキズムに対して警戒すべきなのです」(『世界共和国へ』218ページ)というきめつけは、それはないだろう、と。少なくとも、ネグリとハートが自分たちの目標とする「絶対的民主主義」への道筋を、ともかくも情熱的に「いまこんな動きがある、それを踏まえればこんなことも可能だろう」と論じている。たしかにそれに十分に説得力があるかというと、私には疑問だ。けれども、それに対して、柄谷さん自身の「アソシエーショニズム」の実現への道筋が、それほどの説得力で示されているとは私には思えない。世界の各国民国家が国連に軍事的主権を譲渡して「世界共和国」を実現するという、私から見ればネグリとハートの「マルチチュード革命」と同じぐらいあり得ない道筋を示しているに過ぎない。
 柄谷さんという人がどんなに知識豊富ですぐれた思考を持っている人かはよく知らないけど、こういう批判をしちゃいけないなぁ、と私はやっぱり思う。