猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「遠い目標」で満足できるか?

 というわけで、柄谷行人さんの「マルチチュード」論を読んでみて(id:r_kiyose:20060911)、もういちどネグリとハートの「マルチチュード民主主義」論を読み直してみないとな、と思って、読み返してみた。
 で、感じたのは、やっぱりもう一つよくわからないな、ということだった。個々の部分に書いてあることはそんなにわかりにくくはない。しかし、じゃあ、「マルチチュードの民主主義」って何なのか、それはどうやって実現するのかということになると、なんかよくわからないというのが実感だ。
 まず、「〈帝国〉」状況のなかで、「代表」制が機能しなくなっているという現状分析は、これは理解できる。
 「〈帝国〉」とは、全世界をつなぐネットワークの上に成り立つ権力だ。全世界に成立しているのでその「〈帝国〉」には外部が存在しない。
 で、その「〈帝国〉」はどう支配されているかというと、単独超大国アメリカ合衆国があり、国連があり、世界銀行とかIMFとかがあって、そういうのが支配している。しかし、アメリカ合衆国の政権を決めているのはアメリカの国民だけで、アメリカにコントロールされている他の国の人たちはアメリカの政権を決める権利を何も持っていない。世界銀行にしてもIMFにしても、世界の多数を占める貧しい人たちではなく、世界の少数の豊かな国の意向で動かされている。それが貧しい人たちが住む国の経済政策に厳しい条件をつけたりする。そのなかでは国連が比較的ましだけれど、国連全体の動きはじつは安保理事会に大きく左右され、しかも、安保理事会の動きは拒否権を持つ五大国によって大きく左右される。しかも、国連は各国民国家の代表が集まっているため、たとえばある国の政府が国の豊かな人たちだけを代表していたら、その国の貧しい人のぶんはやっぱり国連には代表されてこない。
 ネグリとハートはもともと「代表」という制度が民主主義的ではないと論じているのだけれど、現在の「〈帝国〉」では、それ以前に、「〈帝国〉」を動かすさまざまな国や組織について「代表」原理が働いていない。一部の富者や強者を代表するに過ぎないものが「〈帝国〉」全体を――つまり世界全体を動かし、世界全体に住む人たちの運命を決定している。それで「〈帝国〉」がうまく治まっていればいいけど、うまく行ってはいない。うまく行かないのは、アメリカ合衆国の単独行動主義をやめて多国間協調主義に入れ替えても同じだという。
 で、そういう状況に対して、ネグリとハートは「マルチチュード民主主義」――「マルチチュード」による「絶対的民主主義」の「〈帝国〉」に対する優位を示す。「絶対的民主主義」とは、代表制を使わない民主主義、古典時代のアテネ(アテーナイ)の民主主義のように、全員が支配し、全員が支配されるという民主主義のことだ。
 「絶対的民主主義」はどうして「〈帝国〉」に対して優位なのか?
 「〈帝国〉」は「マルチチュード」を必要としている。ここで、ネグリとハートは、19世紀の資本家と工場労働者をモデルに考えている。資本家がいくら労働者と対立していようと、労働者がいなければ工場は生産ができなくなって資本家は立ちゆかない。同じように、「〈帝国〉」を成り立たせるために働いてくれる大量の人間が必要だ。その大量の人間は「マルチチュード」のなかにしか存在しない。
 しかし「マルチチュード」の側は「〈帝国〉」を必要としない。「マルチチュード」が「絶対的民主主義」を実現すれば、「〈帝国〉」の支配――具体的にはアメリカの軍事介入や国連の調停や世銀の融資――は必要なくなる。「マルチチュード」が「絶対的民主主義」を実現することで、「〈帝国〉」は用済みの存在になってしまう。
 では、その「マルチチュード民主主義」はどうやって成り立たせるのか? 正直に言うとここがよくわからない。ネグリとハートは、情報ネットワークの発達で、かつての古典時代の都市国家の民主主義やマルクスの『共産党宣言』に出てくる「共産主義社会」の理想郷のように、いちいち集まって議論する手間と時間が省けるから、というようなことを言っている。
 あと、もう一つ、「全体の合意」が必要ないから、ということなんだろうと思う。「マルチチュード民主主義」では、代議制民主主義やルソーの考える国家のような「全体の意思決定」(ルソーのばあいだと「一般意志」)を必要としない。いろんな人たちがいろんなことをがやがやと主張して、いろんな人たちが自分たちで決めたルールに勝手に従っていればいい。いろんなところからさまざまに出された決定とかルールとかが「共通の場所」に蓄積され、それにアクセスしたひとが、その決定やルールを改善してその「共通の場所」に戻したり、自分たちの決定にその「共通の場所」から取ってきたルールを活かしたりする。そういう過程が渾然一体となって全体で「マルチチュード民主主義」が成立する。そういう構想なんだろうと思う。
 この理解が正しいとすると、やっぱり私はネグリとハートは「マルチチュード」の都合のいいところしか見ていないのではないか、ということを感じる。
 ネグリとハートは、「マルチチュード」の一部が作成して「共通の場所」に置いたものは、他の者たちが寄ってたかってよりよいものにしていくはずだという過程で議論を進めている。しかし、実際にはどうかというと、「共通の場所」にウィルス(とかの破壊的なもの)を置いたり、「共通の場所」から取ってきたものにウィルスを仕組んでばらまいたりするひとがかならず出てくる。「共通の場所」で問題を解決するためにまじめに議論が行われるかというと、そういうこともあるだろうけど、「共通の場所」が問題解決に何の役にも立たないおしゃべりの場所になったり、罵倒の場になったりすることも多いに違いない。
 「マルチチュード民主主義」では、「共通の場所」は、ルソーが描いた社会契約のための集会や、代議制民主主義の国会のように、全員を拘束するような決定をする場ではない。ある人びとが決めたルールを守りたい人たちは守ればいいし、守りたくないひとはそれにかわる新しいルールを提案していけばいい。しかし、それではたして利害対立が解決できるのか? マルクスが描いた「共産主義社会」のように、豊富に物資があって、必要なひとが必要なだけ資源を手に入れられるような世界ならば、利害対立がそんなに激しくなることはないだろう。しかし現状ではどうだろう? ネグリとハートは、シアトルのWTO閣僚会議に対する抗議運動の場で、利害が対立する環境保護団体の団員と労働組合の組合員がともに手を携えて運動に参加していたことを例として挙げる。だが、だからといって、環境保護団体と労働組合の対立がなくなったわけではない。運動で手を組めたのは、期間限定で、目標も限定された運動だったからである。たまたまどこかの運動で出会ったとかいうなら、利害の対立する団体のメンバーが手を組むこともあるかも知れない。けれども、村の経済活性化でダムを建設するか、環境保護で反対するかで揺れる村の村人どうしとかだったら? 毎日、顔をつきあわせて暮らさなければならない人たちが二つの派に分かれているとして、それに属している人たちがそうかんたんに手を組めるだろうか?
 それに、「〈帝国〉」が「マルチチュード」の人たちを必要としているということは、「マルチチュード」の人たちのなかにも「〈帝国〉」に依存して生きている人たちがいるということを意味するのではないだろうか? 「マルチチュード」の人たちは多数で多様だ。ということは、前にも書いたとおり、その「多様」さのなかには「〈帝国〉」を支持する方向の動きも含まれていると考えるのが自然なのではないか。
 近代の国民国家がそうだったように、「〈帝国〉」もイデオロギー装置だという一面を持っている。現在の「〈帝国〉」のイデオロギーは、まず「自由」、それから「民主主義」、あと「公正」とか、「安全」とか「秩序」とか、つまり「アメリカ的価値観」に基礎を置いたいろんな概念から成り立っていると言えるだろう。「〈帝国〉」は、「自由」を守り、「民主主義」を実現し、「公正で安全で秩序ある世界」を実現しようとしているのだ、と。現在は、イラクとかアフガニスタンとかレバノンとかですごい拙いことをやったために、その「〈帝国〉」の中心であるアメリカの威信は揺らいでいる。でも、それは「〈帝国〉」のイデオロギー自体が疑われてきているということではかならずしもないと私は思う。ブッシュのアメリカへの批判の多くは、やり方が拙かった、あるいは、ブッシュは「自由」や「民主主義」や「公正」や「安全」や「秩序」を別の自分勝手な目標とすり替えてしまったのだというものではないのか。「〈帝国〉」の理念自体がおかしいという批判がどれだけあるだろう? ブッシュは支持しないが、あるいはアメリカは大嫌いだけど、でも「〈帝国〉」の理念は信じている――そういうひとはけっこう多いのではないかと思う。すくなくとも、現在の世界で、著者たちのように「代表制は真の民主主義ではない」と言って代表制を放棄する用意のあるひとは、そんなに多くないに違いない。
 あと、この「マルチチュード民主主義」の部分(『マルチチュード』第三部)を読み返してみて感じたことの一つは、この本は基本的にヨーロッパと北アメリカの思想しか参照していないということだ。毛沢東とか出てくるけれど、ごく一部に限られる。また、この本ではビザンツ(東ローマ)皇帝の偶像破壊について触れ、その意義をいろいろと論じているのだけど(下巻214〜218ページ)、ここで書かれているビザンツ帝国像は私がたとえば歴史家の井上浩一さんの本で読んだビザンツとはだいぶ違う。ビザンツの皇帝がここに描かれているほど専制的だった時期は限られているし、だいいち、ビザンツ皇帝の偶像破壊は国内でも非常に評判が悪かった。偶像破壊を論じるならば、もっと徹底した偶像破壊論を通したイスラムについて論じればいい。ここだけでなく、ネグリとハートはイスラムについてはほとんど何も論じていない。べつにそれが欠点だというわけではなく、この本は、ホッブズスピノザ、ルソー、フェデラリストマルクスの系譜を引いて書かれた哲学書なんだな、と割り切ればいいのだろう。でも、そのぶん、著者たちの頭にある「マルチチュード民主主義」とは、しょせんはアメリカとヨーロッパとロシアだけ、ヨーロッパ系言語とキリスト教と西ヨーロッパ啓蒙主義の伝統が共有されている場所だけで成立するものなんじゃないの、という勘繰りも、私は消すことができない。
 もう一つ、「〈帝国〉」状況に対抗する「マルチチュード民主主義」を支えるネットワークとして語られているのが情報ネットワークばかりだということにも、私は違和感を感じた。「〈帝国〉」を支えている地球大のネットワークとは、情報ネットワークももちろんあるけれど、ものの生産と流通のネットワークでもある。アメリカとかIMFとか世銀とか多国籍企業とかはその生産‐流通‐消費のネットワークを抑えることで「〈帝国〉」を支配しているのだ。それに対して「情報ネットワーク」を基礎に成立する「マルチチュード民主主義」が対抗しきれるのか? 「マルチチュード民主主義」による対抗は、生産‐流通‐消費のネットワークに対してはあまりに小さいのではないかと私は感じる。
 で、「マルチチュード民主主義」についての私の感じたことのまとめだが。
 「マルチチュード民主主義」は、目標としてはいいけれど、著者たちが言うほど実現は近くないのではないか。というより、実現するのはとうぶん先の目標と考えたほうがいいのではないか、ということだ。
 そういう目標でも存在することには意味がある。そして、たぶん、ネットワーク上の「共通の場所」に知識や経験を積み重ね、全世界から多くの人がそれにアクセスしてさらに新たな知識や経験を積み重ねていく。性急に「一つになる」ことを求めず、「多様になること」こそを目指す。そういう運動を自覚的に行う。そうすれば、この「〈帝国〉」支配下の世界(そういう「〈帝国〉」が実在するとして、だが)は、少しずつならば変わっていくかも知れない。
 ネグリとハートはそういう感想に苛立つに違いない。ネグリとハートは、世界がいつ「マルチチュード民主主義」へと変わるのかという問いを、「クロノス時間」と「カイロス時間」という概念を持ち出して(この「二つの時間概念」って齋藤環さんの本で読んだような……ちがうかな?)はぐらかしつつ、しかし「変わるときには急激に変わるのだ」というような書きかたをしている。
 そうかも知れない。急激に変わるかも知れない。たしかに1985年ごろの私は、10年後に冷戦が跡形もなく終わっているとはまったく想像していなかったし、1989年6月に天安門事件の報道を夜通し見ていたときにすら、その年の年末にベルリンの壁がなくなっているとは百パーセント思っていなかった。同じように「〈帝国〉」から「マルチチュード民主主義」への激変も、私なんかの予想を超えて起こるかも知れない。けれども、冷戦体制崩壊ベルリンの壁崩壊で解決せず、あとに残された問題も多い。同じように、「マルチチュード民主主義」への激変がかりに起こったとしても、あとに残される問題はやっぱり数多いだろうと思う。
 私はやっぱりゆっくり進みたい。「マルチチュード民主主義」も目標の一つかなとは思うけれど、そこで出てくる問題に一つひとつ懐疑的になりながら、少しずつ考えて、判断していきたいと思う。