猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ラテン語はなに発音で読むべきか?(長文、余談多し)

 ちょっとした事情でここのところラテン語を勉強している。まあ、「やってもやらなくてもいいけどやっておいたほうが好都合」という程度の事情なので、ほかの仕事が急迫してきたらすぐにやめるだろう、程度の熱の入れようである。というか、上司とか仕事の発注主とかがこんなことをしていると知ったら「ほかの仕事をさっさとやれ!」と言ってくるだろう。でも、御袖天満宮で「学業成就」のお祈りをしてきたことでもあるし、まあ、なんとかつづけたいと思っている。
 さて、ラテン語を読むときに、なに発音で読むかという問題がまず出てくる。
 何しろ、ラテン語母語として、つまり生まれてしばらくしてから死ぬまで、自分の生活でほぼラテン語だけを使っているひとがほとんどいないのが現状である。母語として使っている人たちがいれば、その人たちの発音に合わせればいい。でも、ラテン語はそれがないのだ。
 ところで、私たちが外国語を学ぶばあい、「母語として使っているひとのことば」を学ぶかというと、そうではないこともある。その国が定めている公用語を学ぶ、ということもある。中国語はそうで、私たちが(少なくとも私が習ったときには)「中国語」として習うのは、中国政府が決めた「共通語」だ。共通語は北京の発音をもとにしているらしく、それで「巻き舌」というすごく発音しにくい音がある。中国人でも巻き舌ができないひとは多いらしい。げんに台湾の「国語」にはこの「巻き舌」がないと聞いた。確かめてはいないけど。
 さて、ラテン語公用語にしている国というか、団体がないかというと、ある。ヴァチカンであり、カトリック教会である。ローマ法王教皇)は、あの物議を醸しているイスラームがどうこうという演説をラテン語で行ったのである。そしてそのラテン語を読み解いて報道したひとが世界にはいるのだ。うわー。なんかそのことだけですごいことのような気がする。もっとも、ラテン語がアニメのサブタイトルに使われる時代だから、驚くには当たらないかも知れないけど。
 で、このヴァチカン(ヴァチカン式の表現ではヴァーティカーヌス……かな?)のラテン語は「イタリア式」または「教会式」という。
 じゃあ、日本のラテン語教育でこの「イタリア式」が教えられているかというと、よくわからないんだけど、私が手にしている概説書だと、どうもそうではないらしい。では、何かというと、ラテン語全盛時代(古典期、黄金期)の発音を復元し、その復元した発音で教えているらしいのですね。これは「ドイツ式」と言うらしいけど、ここでは「古典式」と書いておこう。
 で、いまでこそ、ラテン語は「教会式・イタリア式」か「古典式・ドイツ式」かの二者択一だけど、それ以前は、ヨーロッパの国ぐににはラテン語各国語読みがあったらしい。つまり、イギリスには、イタリア式でもドイツ式でもなく、「英語式」があった、フランスには「フランス式」があったらしい。つまり、そのときの各国語の発音でラテン語の綴りを発音していたわけである。
 たとえば、わりと有名らしい(古典式で)カエサル・(教会式で)チェサル・(イギリス式で)シーザー(あーややこしい)の「来た、見た、勝った」は、つづりはなに式でも veni, vidi, viciで同じだが、発音は、
 ・古典式:ウェーニー、ウィーディー、ウィ
 ・教会式:ヴェーニー、ヴィーディー、ヴィ
 ・英語式:ヴィーニー、ヴァイディー、ヴァイ
と違う。
 ちなみに、veni, vidi, emi だと「来た、見た、買った」で(たぶんそうなると思う)、初回限定特典つきのDVDとかをアニメショップで見たときに私たちが取るべき行動の指針である! ……ってそんなことはどうでもいいな。emi(買った)の発音は、古典式・教会式とも「エーミー」である。でも、ハルヒの第一巻の初回版を予約なしで手に入れた人はラテン語で「veni, vidi, emi」と誇ってもいいかも知れない(ごめんね、こんな話題で>「ハルヒ & 第一巻」とかの検索でここに来たひと)。
 英語式は別として、ここでの古典式と教会式の違いは、「v」を現在の「w」の音で読む(古典式)か現在の英語などの「v」の音で読む(教会式)かと、「ci」を「キ」と読む(古典式)か「チ」と読む(教会式)かである。
 現在では「各国語読み」は行われないようだし、だいたい日本人には「各国語読み」がないので(強いて言えば、ローマ字読みすれば古典式に近くなる)、「各国語読み」は除くとして、では「教会式」と「古典式」のどちらがいいのか?
 私が見た語学系のラテン語の本はすべて古典式を採っている。たとえば、大西英文『はじめてのラテン語』(講談社現代新書isbn:4061493531)は、ラテン語は古典語で読むべきだとし、羊の「べーベー(bee bee)」、フクロウの「トゥー、トゥー(tu tu)」というような擬音は古典式でしか再現できないという例を挙げている。このへんは、現代英語式にすると「ビービー、テューテュー」になってしまうという話で、教会式では「ベーベー、トゥートゥー」で変わらないのだけど、大西さんは教会式も崩れた発音に入れている。だから、「アベマリア」とふつう言われる「Ave Maria アヴェー・マリーア」(教会式)も「アウェー・マリーア」が正しいそうなのだが……古典期(紀元前後とも西暦2桁の時期ぐらいらしい)に「ごきげんよう」とマリア様にごあいさつをお送りするひとがどれだけいたのだろう? ついでに、ラテン語のミサ曲に出てくる Agnus Dei(神の子羊) は、教会式で「アーニュス・デイ」で、こっちの発音で知られているけど、古典式では「アーグヌス・デイ」になる。さらについでに「子羊たちの休暇」なら feriae agnarum で、古典式で「フェーリアイ アーグナールム」、教会式はたぶん「フェーリエ アーニャールム」になるんだろうと思う。なお Agnus Dei の「子羊」は男性だけど、「子羊たちの休暇」の「子羊たち」は女性形にしてある。
 この「古典語が正しい」という主張に反論するのが、イエズス会のひとが書いた田淵文男 監修/江澤増雄『教会ラテン語への招き』(サンパウロ社、isbn:4805620757)である。しかも、その論拠として引用しているのが塩野七生さんなので、これはちょっと強力である。
 その塩野さんの論拠は、(1)古典期の後期に埋没したポンペイの落書きなどを見ると、庶民の発音はイタリア式(=教会式)に近かったはず、(2)現にラテン語を使っているカトリック教会はイタリア式(いうまでもなく教会式)、(3)イタリア式のほうがリズムも流れもよく、ドイツ式はリズムも流れもつっかえてしまってきれいに読めない の3点である。
 たしかに、大西さんの本を読んでも、ポンペイ埋没の1世紀前にすでに俗語では古典式発音は崩れていたらしい。それに、「国語」なんて制度がなかった当時のことだから、皇帝や貴族と庶民とで話しことばが違ったとしてもぜんぜんふしぎではない。
 で、問題は、そのリズムや流れである。単語ではなく、文や文章で比較すれば教会式のほうが断然美しいというのが塩野さんの主張なのだが、さて、どうなんだろう?
 例として、私が持っている唯一のラテン語の原書テキストのタキトゥスの『ゲルマーニア』(田中秀央・国原吉之助 訳註、大学書林isbn:4475021871)から、一文を挙げてみよう。ちなみに、名詞の第三変化の途中までしか学んでいない私がこの文を読むというのはけっこう無謀なことで、ここに書いている読みもまちがっているかも知れないことをお断りしておきたい。とくに私には語尾の長短がぜんぜんわからないので、ぜんぶ短音にしてしまった。訳は……対訳とくらべてだいたい合っているし、いまのライン川の流れとも合っているので、これでいいのだろう。よくわからないけど。それにしても、古典ラテン語で「北海」のことを「北斗七星の大海 septentrionalis Oceanus」と読んでいたことをはじめて知ったよ。「北斗大海」だったらなんかお相撲さんのしこ名みたいだけど。
 ともかく、原文と、教会式読みと、古典式読みを並べてみる。


Rhenus, Raeticarum Alpium inaccesso ac praecipiti vertice ortus, modico flexu in occidentem versus septentrionali Oceano miscetur.
ライン川は、近寄りがたく険しいラエティア・アルプス(いまのアルプス山脈あたり)の頂上に始まり、ゆるやかに曲がって西に向かい、北の大海へと注ぐ」

 [イタリア式=教会式]
 レーヌス、ティカルム アルピウム インアチェッソ アク プピティ ヴェルティチェ オルトゥス、モディコ フレクス イン オッデンテム ヴェルスス セプテントリオーナーリー オーチェアノー ミーシェトゥル。

 [古典式]
 レーヌス、ライティカルム アルピウム インアッケッソ アク プライピティ ウェルティ オルトゥス、モディコ フレクス イン オッデンテム ウェルスス セプテントリオーナーリー オーアノー ミースケトゥル。

 どうなんでしょう?
 塩野さんは教会式が読みやすいとおっしゃるのだが、私はたいして変わらないように感じる。
 塩野さんが断然教会式が美しいと感じるのは、塩野さんが現代のラテン系言語(イタリア語とかフランス語とか)に堪能なことにもよるのだろう。
 あと、私が古典式に抵抗がないのは、意外と、私の母語が、日本のなかで古典語発音を比較的よく残していることば、つまり関西弁だからではないだろうか、と思ったりする。
 言語が変化するとき、よく起こるのが「発音しにくい音が変化して発音しやすい音になる」という現象だろう。私は言語学はよく知らないけど、たぶんそうだろうと思う。とくに起こるのが「カ」行音と「ハ」行音(「フ」は除く)の「喉を鳴らす」系の発音である。
 たとえば、私たち関西人は数字の「七」を「ひち」と読む。少なくとも私の周囲はそうだったし、井上章一さんもそう書いていた。ところが関東ではこれが「しち」になる。「ヒ」→「シ」への変化が起こっているのだ。「キ、ヒ」系が「シ、チ」系に変化するのは世界的な現象らしく、日本で「き」と読む「希」は現代中国語(共通語、つまり北京発音)では「シー」だし、「期」は「チー」になり、現代中国語には「キ」とか「ヒ」とかの発音は存在しなくなっている。
 ラテン語の教会式発音でも、この流れで、「キ」→「チ」、「ケ」→「チェ」、「ゲ」→「ジェ」の変化が起こっている。
 ところが(関西人すべてがそうかどうかは知らないけど)、私は「カ」行、「ガ」行、「ハ」行の音にあんまり抵抗がない。関東のひとは、文中に「ガ」行の音が出てくると鼻濁音化するらしく、それが「正しい日本語」なのだそうだけど、私はこの発音ができない。逆に言うと、流れの途中に「ガ」行音が出てきてもぜんぜん気にならない。
 まあ、私はまだ名詞第三変化の途中までしか学んでいないのだから、もっと深く学べば感じかたも変わるかも知れないけど。
 ともかく、古典式発音に「流れが滑らかでない」というような抵抗がないなら、勉強しやすいのは断然古典式である。たとえば、「pax」(平和。「パックス・ヤポニカ」とかで有名……かな?)、古典式では「pax パークス(平和が/平和よ)、pacis パース(平和の)、paci パーー(平和に)、pacem パーム(平和を)、pace パー(平和から)」という格変化をする(だいじょうぶ……だよね?)。いちおうぜんぶ「カ行」で収まる。日本流に言えば「カ行第三変化」である。ところが、これを教会式で変化させると、「パークス、パース、パーー、パーチェム、パーチェ」となり、「カ行」と「チャ行」にわたって変化してしまう。
 というわけで、私はやっぱり古典式で先に覚えて、必要ならばあとで教会式に慣れようと思っている。
 では、「古典式で覚えるのが正しい」と言いたいのかというと、そうでもない。私は、不便がなければ、各国語式でかまわないと思う。たとえば、英語のひとならば、「ヴィーニー、ヴァイディー、ヴァイシー」でいいと思っている。
 ただ、カトリック教会の世界で生きたいひとはやっぱり教会式がいいだろう。だから志摩子さんがラテン語を学ぶなら教会式がいいと思う。いや〜、能登さんの声で教会式の発音のラテン語教材を出してくださったら、私は一も二もなく教会式でラテン語を覚えますよ、ぜったい。
 ところで、辞書を調べていて、「ロサ・カニーナ」というのが「犬のばら」という意味だと判明した。いや、入門編の最初のほうしかやってなくても、とりあえず辞書は引いてみるものです。そういえば、「ロサ・ギガンティア」、「ロサ・キネンシス」という発音は古典式だな(「ロサ・フェティダ」は同じ。なお「バレンタイン」を「ウァレンティーヌス」と読むのは古典式で、教会式では「ヴァレンティーヌス」になる)。「ロサ・ジガンツィア」、「ロサ・シネンシス」とどっちがいいですか? やっぱりねぇ、祐巳さんはともかく、祥子さまには古典発音の感じのほうが似合ってる気がするんですけど。だから能登さんをはじめ薔薇様がたの声で山百合会監修で古典式発音のラテン語教材が出たら一も二もなく古典式だ。
 話が逸れた。でもいいと思うんだけどな〜企画としては。「萌えるラテン語」とか。
 ……つまり、そのひとがいちばん覚えやすいことばで覚えたら?――と私は思う。
 たとえば、私たちは、漢文を「読み下し」という、日本以外では通用しない方法で読んでいる。最近は、大学とかでは「漢文」を現代中国語発音で読んだりするらしいが、ともかく、一般にはやっぱり漢文は読み下しだ(それ以前に一般では漢文読まなくなったけど)。「国破れて山河在り、城春にして草木深し」だから情感が出るので、「クオポー、サンヘーツァイ、ツェンツン、ツァオムーセン(ちなみに、eは「エ」で、巻き舌を巻き舌でない音に近く表記してみました)」という読みは、専門のひとだけにして欲しい気がする。大西英文さんは、『はじめてのラテン語』で、「毛沢東」を「マオ・ツォトン」と読んだほうが知的な感じがすると書いておられるけれど、そうかなぁ? 「もうたくとう」のほうが知的で、「まお」というとなんか陸上防衛隊な感じがする……のは一部のひとだけか。でも、じゃあ「孔子」はコンツーで「李白」はリー・パイで、「曹操」はツァオ・ツァオで「諸葛孔明」はツーケー・コンミンのほうがいいですか?
 それに、ツァオ・ツァオがツーピー(赤壁)でツーケー・コンミンの策略にのせられて大敗したと言ってみたところで、「現代」中国語なわけで、古代中国語とはぜんぜん発音が違う。私は古代中国語はぜんぜん知らないけど、現代中国語で漢詩とか読んだら韻が違ってしまったりするから、やっぱりだいぶ違うんだろうと思う。
 さらにいえば、私たちがいま発音している日本語は、ほんとうの古典発音とはやっぱり大きく違う。とくに万葉時代なんか母音が8つぐらいあったはずだし、子音の発音も違うところがあったらしい。でも、私たちは、万葉集を読むときに万葉時代の発音で読んだりしない。それに、じゃあ雄略天皇の歌は5世紀の発音で、大伴家持の歌は8世紀の発音で、関東の人たちが詠んだあずま歌は当時の関東発音で読む? そんなことはしないと思う。学者や朗読家でも、専門のひとやとくに古代音に関心のある人以外は、ぜんぶ現代発音で読むだろう。
 私たちは、中国古典を日本でしか通用しない読みかたで読み、日本の古典を現代日本語で読んでいる。そして、その「古典の日本読み」や「古典の現代読み」でここまでの文化を築いてきた。それと同じように、教会は教会式のラテン語読みで現在のカトリック教会の世界を築いてきたのだろうし、イギリス文化は「ヴィーニー、ヴァイディー、ヴァイシー」式のラテン語教養で築かれてきたのだろう。
 日本にはラテン語をずっと読んできた歴史がない。だから、古典時代の(貴族階級の?)発音を復元した古典式で読んでもいい。他方、現在、ラテン語公用語にしているヴァチカン(古典式に近づけると「ワチカン」になってしまう)の発音を採用し、また、日本でも幕末以来の歴史があるカトリック教会の発音を採用して、イタリア式で読んでもいい。
 「自分は正しいほうを学んでいるんだ」という姿勢よりも、いま自分が学んでいる読みかたが唯一絶対のものでないということを自覚しておくことが、たぶん重要なんだろうと思う。それは、たぶん、読み下しで漢文読んだりするときにも。
 というわけで、長くなってしまいました。
 ごきげんよう