猫も歩けば...

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田淵文男(監修)/江澤増雄『教会ラテン語への招き』サンパウロ

 「カトリック教会のことば」としてのラテン語に、カトリック信者に関心を持ってもらおうと書かれた本である。19日の日記(id:r_kiyose:20060919)でラテン語の教会式発音を主張している本として引用した。
 著者の江澤さん(神父さま?)は、まず、現在の日本のカトリック教会にとってもラテン語の知識は必要だということを力説する。
 カトリック教会では、長いあいだラテン語公用語であり、ミサもラテン語で行われていた。ところが、いまから40年ほど前の「第二ヴァチカン公会議」というカトリックの最高会議(なんだろうと思う)で、教会行事では現地のことばを使ってよろしいということが決まったらしい。すると、日本ではミサなどの教会行事はぜんぶ日本語で行われるようになり、それまで歌われていた(ラテン語の)グレゴリオ聖歌まで歌われなくなってしまった。そういえば、私が参列した知り合いのカトリック教会での結婚式はたしかに最初から最後まで日本語でしたね。地味だけど、なかなか印象的な結婚式でした。私はカトリック教徒ではないから、カトリックの教会行事に参加したのはそのときぐらいだ。
 ところが、著者の江澤さんは、日本の教会でラテン語が使われなくなり、日本人の教会関係者がラテン語を学ばなくなった現状に危機感を持っている。
 第二ヴァチカン公会議は現地語の使用を認めただけであって、カトリック教会の公用語ラテン語であるという点は変えていない。だから、ローマ法王教皇)のおことばとかカトリック教会の公式文書とかにはラテン語が使われる。しかも、過去にはカトリック教会はずっとラテン語を使ってきたのだから、カトリック教会が過去に蓄積してきたものはラテン語で書かれている。ところが、いま、教会の人(神父さんとか)がラテン語がわからなくなってしまったら、法王のおことばも、過去から積み上げられてきた知恵もわからなくなってしまうではないかというわけだ。
 江澤さんは、第二ヴァチカン公会議の意義を全面的に否定するわけではない。「平信徒」にわからないラテン語で儀式が行われるよりは、「平信徒」にわかることばで儀式が進むほうがいいというお考えらしい。ただ、「わかることば」で儀式が行われるようになった以上は、「平信徒」にも、教会行事の意義を理解して積極的に教会の活動に参加していくことが求められるようになった。そのためには、一般の信徒にも、教会で使われてきたラテン語について、概略程度のことは知っていてほしい。いま神父さんが言っていることがラテン語で言えば何になるかはわからなくていい。でも、ともかくその背後にはラテン語で蓄積されたカトリック教会の知恵とか経験とかがあるんだ、ということはわかってほしい――というのが江澤さんの立場のようだ。
 この話のあと、発音と文法について簡単な紹介があり、そこからいきなりラテン語のお祈りをラテン語で単語ごとに区切って読みはじめるという構成になっている。お祈りは「天にましますわれらの父よ」と「アベマリア」と「グローリア(栄えあれ)」の三つを採り上げている。文法の解説が短いぶん、アクセントと長音が解説にぜんぶ表示されているのはありがたい。最後には、押井守ファンにはなじみの深い「童の時は語ることも童のごとく、思うことも童のごとく、論ずることも童のごとくなりしが、人となりては童のことを捨てたり」のラテン語原文の解説もある(まあそのさらに原文は古代ギリシア語だけど)。


Cum essam parvulus, loquebar ut parvuls, sapiebam ut parvulus, cogitabam ut parvulus, quando autem factus sum vir, evacuavi quae erant parvuli.
 著者の江澤さんの立場は、カトリック教会の公用語は絶対にラテン語でなければならないというものではない。むしろ変わって行くのが自然だと書いている。だから、発音も絶対に教会式でなければならないというわけではない。ただ、現状では、世界のカトリック教会がラテン語公用語としており、それを「ローマ式」で発音するよう定められている以上は、現在は、とりあえずでも何でも、ラテン語の知識が必要で、性急にラテン語ラテン語で書かれたものを切り捨ててしまうならば、大きなものを失うだろう、ということのようだ。
 ところで、ではその第二ヴァチカン公会議以前は、日本ではどんな儀式が行われていたかというと、ラテン語のわかる教会の人(司祭さん?)がラテン語で儀式を進め、一般の信徒はそれをわけがわからないまま聞いているだけだったという。グレゴリオ聖歌を歌う聖歌隊も意味はわからないまま歌っていた。何か雰囲気は伝わるけれど、何が行われているかは具体的にはわからなかった。
 私は「宗教は?」と聞かれたら「いちおう仏教徒です」と答える程度の仏教徒だ。でもえりかちゃんと同じように「般若心経」は暗誦できる。コウガピンクには変身できないけど……って、いまどきこのネタわかるひといるのかな? なんせ「ひっくり返ったなA面B面」とか言ってた時代だもんなぁ。
 しかも、私の宗派は、サンスクリット語(のかな読み)なのだろうけど、意味がまったくとれない唱えことばが多い。江澤さんも仏教のお経に触れていて、お経は漢字で書かれているけれど意味がわからないと書いておられるが、じつは漢字経典は漢字を追っているとある程度は理解できる。でもサンスクリットのほうはほぼ無理だ。
 どちらにしても、法事のときには、お坊さんが唱えるお経のテキストを一般参列者は持っていないので、ほぼ完全に理解不能の音列を延々と聴くことになる。最近ではそれではまずいということになったのか、法事の最後のほうでは、お坊さんがお経の本を参列者に配って、「みんなでいっしょに詠んでください」と言うようになった。まあそれはそれで「参加感」があっていいんだけど、漢字のお経を意味をとりながら読んでいる時間はないし、サンスクリットはあいかわらず意味不明である。
 私は宗教の儀式といえばそんなものだと思っていた。だから、司祭さんが言っていることが一般信徒にわからなくても、その場の雰囲気とかでことばにならない意味が信徒に伝われば、それで宗教の役割は果たしているんじゃない?――と思う。どうせお説教は日本語でやるんだろうし。少なくとも、私は、私の宗派のお坊さんに「漢文棒読みやサンスクリット語はわからないから日本語でお経を上げてください」と要求する気はまったくない。いや、日本語にするとさらに長くなりそうで……。
 っていうかさぁ、「宗教」ってあんまりことばでわかっちゃいけないんじゃない?――といまふと思った。ことばばっかりで理解を進めていくと、「原理」ばっかり頭に入って、それで「原理主義」とかになるんじゃないのかな? もちろん「原理主義」が受け入れられていくのはそれだけが理由じゃないだろうけど。でも、やっぱり、明るかったりうす暗かったりするお堂の雰囲気とか、なんかたくさんの人が同じお堂の中に揃っている感じとか、そしてたぶんわけのわからないことばを聴きつづけることの眠たさ・退屈さとか、そういうのをいっしょに感じないで、「原理」だけで宗教を理解すると、キリスト教っぽい言いかたをすると「つまずく」気がするんだな。