猫も歩けば...

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動詞が最後に来ることばって普通ですよね

 忙しいとかいいながら、ラテン語のお勉強はつづけている。最近は、大西英文さんの『はじめてのラテン語』(isbn:4061493531)で変化や文法を覚えたりするのと並んで、小林標さんの『独習者のための楽しく学ぶラテン語』(大学書林isbn:447501803X)をテキストに使うようになった。まだ最初のほうで、名詞の第一変化・第二変化のあたりだけれど。
 このテキストは、最初の入門のあたりから、古代ローマ人が書いたラテン語そのものが出てくるのが特徴だ。
 で、そういう文を読んでいると、ラテン語の語順は、「〜は〜を〜に〜する」というふうに、日本語をそのまま置き換えたものでだいたいだいじょうぶということがわかる。動詞が英語とかと同じように主語と目的語のあいだに来ている文もあるけれど、例文を見るかぎり、動詞がいちばん最後に来ている文のほうが多いように思う。ちなみに目的語が主語より先に来ても、主語がいちばん最後に来ても、ぜんぜんかまわない。
 なんか、高校のころに「日本語は動詞がいちばん後ろに来るのでわかりにくくて非論理的だ、欧米の言語のように動詞が目的語より先に来るのが明快で論理的な言語だ」とかいう文を読んで、「何言ってんだ?」とか思ったことがある。いま思えば、この文章を書いたひとは、自分はヨーロッパ文化をよく知ってますよ〜というふりをしていながら、ヨーロッパ文化の重要な基層の一つであるラテン語は初歩すら知らなかったのだな。べつに知らなくてもいいけど、だったらこんなことを書くのはやめたほうがいいんじゃないか? まあいいけど。生半可な知識で偉そうなことを書くのは私もそうだから、あんまりひとのことは言わないほうが安全ではあるのだが。
 まあそんなことを思ってちょっと調べてみたら、日本語と構造が似ている朝鮮語・韓国語やトルコ語はもちろん、インド・ヨーロッパ系の言語でも、ヒンディー語とかペルシア語とかは動詞が最後に来るみたいである。そこから考えると、動詞がいちばん最後に来る言語というのはけっして珍しくないようだ。英語・ドイツ語・フランス語や中国語(古典中国語、現代中国語含めて)が「主語‐動詞‐目的語」の順だからといって、動詞が最後に来る言語がけっして例外で異端だということにはならない。現在の大学教育でメジャーな言語が「主語‐動詞‐目的語」の言語に偏っているだけの話じゃないか。
 ラテン語は「屈折語」であって、語の一部が変化するのに対して、日本語は「膠着語」であって語に助詞や助動詞がくっつくことで意味の変化を表現する、だからこの二つは別系統の言語だ――という理屈はわかる。わかるけれど、感覚としては、日本語の「〜を」は対格、「〜に」は与格、「〜から」とか「〜のせいで」とかは奪格と置き換えてOKな(もちろん機械的に置き換えるといっぱい間違いを生じるようだけれど)ラテン語のほうが日本語を母語とする者にはよほど近しい感じがする。古典発音で読むかぎり母音は基本的に「あいうえお」ですむし(ギリシア語系のことばだけ「y」音が加わるが)、古典発音で読むかぎり子音もlとrの区別を除けば日本語の音で対応可能だし、教会発音にしたところでそんなに複雑なことにはならない。
 ラテン語も英語も「帝国」の政治力で、もっといえば軍事力を背景に広がった言語だけれど、「世界語」としての学びやすさはラテン語のほうが上だと思うんだけどなぁ。ガリア人とかフランク人の一部とか西ゴート人とかブルグンド(ブルゴーニュ)人が、もともとしゃべっていたはずのゲルマン系の言語を捨てて世俗ラテン語に染まっていったのは、単にローマ帝国の過去の栄光とか、カトリック教会の影響とかのせいだけではないと思う。
 「日本人が英語をしゃべれないのは文法とか読解とかの詰め込み教育ばかりしているせいだ」なんて理屈こねるのはやめて、「英語は外国人には学びにくい言語なのだ」と正面から認めませんか? ――というのは英語がすごい苦手な者のひがみだけど。げんに私はラテン語‐英語辞典でラテン語の単語を調べていて、英語の恩恵には十分に浴しているわけだから、英語のことをあまり悪くは言えない。でも、ラテン語は、詰め込まなければならない文法的な要素は英語よりはるかに多いけれど、それが文や文章を理解する妨げにはあまりなっていないように思う。ラテン語にはラテン語の取っつきにくさがあるのと同様に、英語には英語の学びにくさがあるはずで、それが何かを突き止めることが、英語教育家のやるべきことなんじゃないだろうか――と、やっぱり英語が苦手な者は思ったりする。