猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

引きつづきラテン語について

 昨日書いた小林標先生の『独習者のための楽しく学ぶラテン語』の最初のほうの課に出てくる例文で、私がとりわけ「ああこれはあかんわ」と痛感した文がある。ラテン語というのがこういうものだったら、とても私の手には負えないと思った。
 それは

 Parva necat viro spatiosum vepera taurum.

という一文だった。単語の意味だけ記すと:

 parva 小さい(主格、女性);
 necat 殺す(三人称、単数、現在);
 viro 毒によって(奪格、男性);
 spatiosum 巨大な(対格、男性);
 vepera まむしが(主格、女性)
 taurum 牡牛を(対格、男性)

である。したがって、全体では「小さなまむしが(まむしは小さくても)毒で巨大な牡牛を殺す」となる。
 ちなみに「necat(ネカット)」は三人称単数形で、一人称単数形、つまり「私は」を主語にする形に直すと「neco(ネコー)」になる。したがって、この日記のタイトル「猫も歩けば」は「「私は殺す」も歩けば」ということになってしまう。物騒だね。
 「viro」は主格の形に直すと「virus」、つまり「ウィルス」となる。ラテン語ではたんに「毒」の意味だった。近代になって、細菌などではない謎の小さい病原体が見つかったときに、それをその病原体の名まえに転用したのが現在の「ウィルス」の語源であるらしい。なお、この「ウィルス」という呼びかたは、ラテン語起源のことばが、ラテン語発音、それも古典ラテン語発音で日本語に定着しているということで、古典ラテン語学者の覚えがめでたい。「ヴィールス」にすると教会ラテン語発音で、長音を再現しているという点ではこちらのほうが忠実だ。
 私は、子どものころ「ビールス」ということばを先に教えられた。だから「ウィルス」というのが「ビールス」と同じものだと理解するまでにしばらくかかった。いまでも「ウィルス」の顕微鏡写真などを見ると、「ビールス」ということばが先に思い浮かぶことがある。
 「taurum」は主格で「taurus」、牡牛座である。とうぜん男性名詞で、「牡牛座」という訳で正確なのだが、占星術では牡牛座は女性扱いだ(なぜかはよく知らないが、前の牡羊座と後ろの双子座が両方とも男性だからだろう)。しかも守護星は惑星のなかでもいちばん「女性」らしいヴィーナス(ラテン語の古典発音では「ウェヌス」ですね)、つまり金星である。ただし、ここでのヴィーナスは、「美」の守護者というよりは金銭の守護者である。とかいう話はここではどうでもいい。

 で、例文の順番に訳語を並べると、

 小さい/殺す/毒で/巨大な/まむしが/牡牛を

となる。小学校とかでやったみたいに「修飾語」を剥ぎ落としていくと、ここで言いたいことの骨格は「まむしが牡牛を殺す」となる。
 で、それの順番が「殺す/まむしが/牡牛を」となっているのは、まあいいとしよう。外国語で日本語と語順が違うというのはよくある話だ。
 しかし、だ。「まむし」にかかる修飾語は「小さい parva」である。これが「殺す/毒で/巨大な」を飛び越して「まむし」にかかっている。まん中に、述語と、ほかの名詞にかかる修飾語とをはさんでいるのだ。「牡牛を」にかかる修飾語「巨大な」も「まむしが」を飛び越している。
 日本語であり得ない語順だというだけではない、英語でも無理だ。試みに「逐語訳」、つまり単語順を変えないで訳してみると:

 The little kills by poison the great a viper an ox.

となるだろう。こうやって英訳してみると、ラテン語に冠詞がないのは楽だね、と感じる。
 これならば「小さいものが毒で巨大なものを殺す」までは意味が取れる。しかし、後ろの「まむし」と「牡牛」の二つの名詞が孤立してしまう。まして、原文がもし「necat」から始まって
 Necat parva viro spatiosum ...
になっていたら、英訳も「kills」から始めて
 Kills the little by poison the great...
になってしまい、意味が取れない。それでもまだ冠詞と前置詞があるから英語では成り立つわけで、「Kills little poison great...」とかになるともうわけがわからない。というより、だから、英語には冠詞と前置詞があるのだ。
 では、ラテン語では、どうして「小さい」が「まむし」を修飾し、「巨大な」が「牡牛」を修飾しているとわかるのか。どうして、隣り合っている単語をつないで「巨大なまむし」という意味と誤解されないのか。
 まあ常識で考えてまむしが牡牛よりも巨大というのはおかしいから、わかるといえばわかるけれども、それは考えに入れないとすると、それは、ラテン語の、というよりインド・ヨーロッパ語の大原則である「性と格の一致」(「と」を抜くと「性格の一致」だなぁ。もう少しきちんと言うと「性・数・格の一致」)による。「小さい」の parva が女性・主格なので、男性・対格の「牡牛」 taurum には結びつかず、女性・主格の vipera にしか結びつかない。「巨大な」の spatiosum は、男性・対格なので、いかに隣り合っていても女性・主格の「まむしが」には結びつかず、それに結びつくことばは taurum 「牡牛を」しかない。
 「性・格の一致」の原則があると語順が自由になるから便利ですよね――と言ってしまえばそれまでなのだけれど。
 古代ローマ人って、これでわかったのだろうか?
 やっぱりこれは古代ローマでも「悪文」だっただろうと思う。いくら「性・格の一致」があるといっても、前に出てきた単語の性・格を覚えていなければならない。それはやっぱり読み解く上で負担だっただろうと思う。
 この「Parva necat viro...」という文はたぶん詩の一節である。ラテン語の詩は長短のリズムを重視する。その長短の規則にちょうど当てはまる語順としてこうなったのだろう。詩のばあい、「わかりやすさ」よりも「調子のよさ」のほうが重視される。
 ただ、それでも、ともかくも私たちよりは古代ローマ人のほうがよくわかっただろうと思う。
 古代ローマ人がどうやってこの複雑な文を理解したかについて語れるだけの根拠を私は知らない。だいたい、私は「英米人はどうやってあの複雑な英語が理解できるのか?!」ということすらよくわかっていない。日本語のばあいは、「まあともかく前に修飾語があって、後ろにその修飾語を受けることばがあって、最後に動詞が締めるから、わかるんだ」という程度の説明はできる。
 で、それでもあえて想像してみることにする。
 最初の「parva」は、ただの「小さい」という形容詞ではない。名詞として「小さい女性的なもの」を意味する。というより、形容詞だ名詞だという区別は文法家がやるもので、そんな区別はなく、parvaという形容詞だけで、古代ローマ人は「小さい女性的なもの」を思い浮かべることができただろう。まむしが女性的かどうかということはいまは問題にしないとして、だ。
 次の「necat」は動詞なので、ここまで聞いた段階で「小さい女性的なものが殺す」ということが理解できる。「viro」は「毒で」で、「小さい女性的なものが毒で殺す」ということが言いたいんだなということを理解する。次で「〜を」が出てくる。「spatiosum」もただ「巨大な」ではなく「巨大な男性的なもの」である。ここまでで「小さい女性的なものが毒で大きい男性的なものを殺す」で、「何が何によって何をどうした」ということがいちおう理解できてしまう。
 その次にようやく「vipera」という「まむし(女性)が」ということばが出てくる。まだ「parva」を覚えている古代ローマ人は、ここで、「最初に出てきた「小さい女性的なもの」は「まむし」のことか」と理解する。つづいて「taurum」が「牡牛を」なので、「その小さい女性的なものに殺される巨大な男性的なもの」というのは牡牛だったのか、というオチがついて、「小さいまむしでも毒で巨大な牡牛を殺す」という文の意味が理解できる。この語順で言うことで、「小さいまむしに殺される巨大な男性的なものとは何だ?」という謎を最後に残すことができ、文の印象を強めている、というわけだ。
 先に日本語であり得ない語順だと書いたけれど、述語の位置を変えたり、接続詞を補ったりすると、「小さいのが毒で大きいのを殺す、つまり、まむしが牡牛を」という程度には「逐語訳」できる。たぶん、古代ローマ人は、「つまり」というようなつなぎことばを通さないで、これを一つのまとまりとして理解するように、その言語生活のなかで育っていったに違いない。
 もっとも、どういうばあいでもこの「自由な語順」が通用するわけではない。このばあいでも、「まむし」が女性名詞、「牡牛」が男性名詞だったから区別がつきやすかったので、同じ性だったらもっとわかりにくかっただろう。それでも「格」(「〜が」と「〜を」の区別)があるから、このばあいは何とかなる(もしどちらも中性だったとしたら、中性名詞は主格と対格が同じ形というのが普通だから、お手上げになる)。しかし、動詞が英語の is にあたる est だったとしたら、「AはBである」ではAもBも主格である。「a(形容詞)なA(名詞)はb(形容詞)なB(名詞)である」という文を考えたばあい、「A+a+B+b+est」とか「a+A+b+B+est」とか「A+a+est+B+b」とか、ともかくA(名詞)とa(それを修飾する形容詞、)Bとbは近くに置くのが普通で(「est」の位置は自由なので「a+est+A+B+b」などという順番もありうる)、「A+b+a+B+est」は、やっぱりよろしくない語順ではないだろうかと思う。
 中学校や高校の英語の学習では、教科書の例文を書き写して、その意味のほかに、どのことばがどのことばにかかるのかを下線と矢印で図示したりしていた。今度のラテン語の勉強でも、最初はそれをやりかけていたのだが、面倒になってやめてしまった。
 たぶん、どの外国語も、ネイティブの人は「最初から順番に」理解しているのだ。そして、ある程度、慣れた外国人の学習者が「わかりにくい文」と思っている文は、たぶんネイティブの人にだってわかりにくい。私が、英語で、関係代名詞や関係副詞がぞろぞろとくっついて、どれが主文の主語と動詞なのかわからないような文を読んで音を上げかけていたとき、事情通の人が「ああ、そのひとの文はイギリス人も悪文って言ってるから」とさらっと言ってくれて、だいぶ気が楽になったことがある。気が楽になっただけで、読解の苦労が減ったわけではないけどね。
 文法教育には意味がないなどと言うつもりはない。でも、日本語としてはあり得ない語順でも、とりあえず文の最初から順番に理解していくというやり方を体得することが、外国語を身につけるには重要なのかも知れないと思っている。
 英語でもラテン語でも、そんなのは私自身が身につけてないけど。