猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ラテン語、ラテン語からロマンス語へ、附:「教養」の話

 ラテン語について、最近、白水社文庫クセジュで2冊本を読んだ。ジャクリーヌ・ダンジェル『ラテン語の歴史』(asin:4560058431)とジョゼフ・ヘルマン『俗ラテン語』(asin:4560054983)だ。
 『ラテン語の歴史』は、古典期より前(「古拙期」というらしい)から、そのラテン語が崩れてしだいに「ロマンス語」(フランス語とかイタリア語とかスペイン語とか)へと移行していく時期までのラテン語の歴史を解説した本である。『俗ラテン語』はそのラテン語から「ロマンス語」への移行について集中的に論じている。
 古拙ラテン語について読むと、古典期のラテン語の形が唯一のものではなく、揺れ動いていた要素があることがわかる。たとえば「facio, facere」のラテン語のでの完了形(ラテン語では単純過去形=アオリストも兼ねる)は「feci」だが(あれ、ちがったっけ? う〜む)、古拙期には、頭の音節を重ねるという別のパターンの完了形も使われたらしい。
 また、古拙期から、音節の後ろ(単語の最後か、母音の後で次に子音が続くとき)の「m」、「n」系の子音は弱かったらしい。後の「ロマンス語」への移行で、この単語の最後の「m」系の子音は消えてしまうという。私は「ロマンス語」系のことばは一つも知らないのでよくわからないけど……。
 だから、そのあいだにはさまる古典期に、語末の「m」がきちんとはっきり発音されたのかどうかはわからない。自覚的に発音したのは、貴族・教養人階級だけだったのかも知れない。だから「m」で終わることばの最後の「m」をあんまり強く「ム!」とか発音してしまうと、かえって古典期の発音からずれてしまうのかも知れない。
 『ラテン語の歴史』は、ラテン語アクセントは高低アクセントだったという立場で書かれている(強弱アクセントだったという説もあるそうだ)。そして、古い時期のラテン語には、その高低アクセントとは別に、第一音節に強いアクセント(英語と同じようなアクセント)があったといい、それがさまざまな語形変化に影響を与えているという説である。う〜む、高低アクセントと強弱アクセントを同時に発音するなんて、「学んで身につける外国語」としてはすごい難しげな感じが……。で、高低アクセントのほうが残ったのですね。私は高低アクセントに富んだ言語、つまり関西弁を母語とするので、なんか親近感が……。
 古典期以後のラテン語は「合成語の造語力」が古典ギリシア語などと較べて弱い言語となっていて、単語を二つ組み合わせて一つの単語にしてしまうようなやり方があまりできない。それが、煩わしさと同時にその典雅さを保っているわけだけれど、『ラテン語の歴史』を読むと、古典期に入るまでは、けっこう「合成語の造語力」がラテン語にもあったことを感じる。「農民のことば」が、「都市文化人のことば」へと発展していくときに、この機能が発揮されたらしい(これは私の読みこみ過ぎかも知れないけれど)。
 語順については「自由」というのがラテン語の特徴で、前の日記に書いたようなすごくこんがらがった語順でも許される。しかし、『ラテン語の歴史』によると、それでも「標準的な語順」はあったという(このことは『独習者のための楽しく学ぶラテン語』にも書いてある)。主語(主格)が最初で、動詞が最後が普通なのだそうだ。
 もー。私は、高校のころ、「ヨーロッパ語は動詞が先に来て、そこで否定かどうかなどがわかるから明晰だが、日本語は動詞が最後にあるからわけのわからない言語だ」という説を聞かされた。もっとも、私の学年の担当だった国語の先生は、そういう説には批判的だったけれど。でも、いま思えば、「ヨーロッパ語は動詞が先に来るから明晰だ」などと言っていた人は、ヨーロッパ語についてご高説を垂れながら、ヨーロッパ文化の根源の一つであるラテン語をまったく知らなかったのだ。ラテン語を、一文とは言わなくても、五つぐらいの文を自分で読んでいれば、ラテン語では動詞が最後に来ることぐらいすぐにわかるはずだから。ついでに言うと、具体的な知識は何もないけれど、インド・ヨーロッパ語に属するヒンディー語もペルシア語も、語順は動詞が最後が普通らしい。なんだよもー。「日本語は動詞が最後に来る珍しい言語だ」とか習っていたのに。
 ともかく、こういうことが言われていた時期には、「英語、ドイツ語、フランス語と漢文(「中国語」ではなく)に通じているのが教養人であり、それが知識人であることの最低条件だ」みたいに思われていたのだろうな。
 で、英語、ドイツ語、フランス語、漢文と並べると、これはぜんぶ「主語+動詞+目的語(とか補語とか)」という語順だ。そこで、英語、ドイツ語、フランス語、漢文のなかに日本語を置けば、「日本語だけ語順が特殊」ということになってしまう。
 しかも、そういう「常識」が行き渡っていたということは、「英語、ドイツ語、フランス語、漢文」と読めれば、それで「教養人」としては合格であり、その先に古典ギリシア語やラテン語を学ぶのは「もの好き」または「特殊分野の研究者」で、例外的な少数者にすぎなかったのだ。「ここまで行けば教養人の条件はクリア、その先まで学ぶのはもの好き」という線がはっきりしていたことになる。
 私は大学で中国語選択だった。現在でこそ大学での中国語選択者はすごく多いらしいけれど、私のときにはドイツ語・フランス語と較べて超少数派だった。そのころの英語のテキストにフランス語からの引用が出てきた(いま考えるとむちゃなテキストだ)。それが読めないで詰まると、英語の先生が「第二外国語は何だ」ときいた。「中国語です」と答えると、「中国語ならば中国語でいいけど、ドイツ語とフランス語ぐらい読めないと大学では通じない」と説教された(そんなことはぜんぜんなかったけど)。「中国語なんて言語は大学の第二外国語としては認めてやんねーよ〜」という雰囲気が濃厚に漂っていた。
 その時期には、私のように、英語もろくにしゃべれないのにラテン語に手を出そうなどという人はほとんどいなかったのだろう。教本もそんなに売ってなかっただろうし。
 現在ならば、英語をはじめ学校で学ぶ外国語なんかろくに身につけていなくても、大学などではあまりメジャーでない外国語はしゃべれるというひとは、そんなに珍しくないと思う。どこかに旅行に行きたいから、その旅行先のことばだけ集中的にマスターしたいという外国語学習者は少なくないはずだ。私のように、もの好きで(私のばあい、ラテン語に興味を持った理由はいくつかあるが、その一つは実写ではなく「!?」もつかないアニメの『ネギま』のサブタイトルの意味を知りたいということだった)古典語やメジャーでない外国語を学び始める人も、たぶんそこそこいるだろうと思う。
 知識人のコミュニティーの都合で作られた、異様に「かちっ」とした「教養」の基準が、20年ほど前に非常にもろく崩れてしまったのだ。まあ、東浩紀さん流に言うと、それが「大きな物語」の終焉であり、「ポストモダン」の幕開けということになるのだろうけれど。しかも、ヨーロッパの知識人コミュニティーでは、20世紀前半にはラテン語は必須の教養だったはずだ。そのラテン語は日本の「教養」基準からははずれている。
 「教養」の話については、最近、苅部直(『丸山眞男asin:4004310121 の著者だね)『移りゆく「教養」』(NTT出版、asin:4757140967)という本を読んだ。その感想をいずれ書きたいので、そのときにまたいっしょに考えてみたい。
 話がルサンチマンな方向にずれてしまった。
 ともかく、ラテン語にはいちおう「標準的な語順」がある。「動詞が最後」以外にも「形容詞は後ろから係るのが普通」という「基準」もあったらしい。だから、形容詞を前から係らせると、そこが印象に残る。強調したくないときには「名詞+形容詞」の語順が無難ということだろう。まあ、私などがラテン語作文をする機会はまずないはずなので、読むときに「ふ〜ん、形容詞が前ということは、このひとここの形容詞を強調したいんだ〜」ぐらいに思っておけばいいわけだけど。
 ラテン語で「言文一致」が達成された時点から「古典期」が始まった。ところが、「古典期」から民衆ことばと書きことばの分離が始まる。その「書きことば」のほうが現在まで「ラテン語」として残り、「民衆ことば」が「ロマンス語」に発展していった。その過程を主に書いたのが『俗ラテン語』だ。
 発音は、古典ラテン語には「ア、イ、ウ、エ、オ」の五つの母音しかなく(ただしギリシア語からの借用語に「ユ」がある)、日本人には身につけやすい言語だ(教会発音ではドイツ語にあるウムラウト系の発音が加わるらしい)。その母音に長短の区別がある。ところが、「俗ラテン語」になった「民衆ことば」の段階で、長短の区別が消滅してしまい、長音・短音が別々の母音に変化して、いまのフランス語のような「母音の種類がたくさんある言語」へと発展していったようだ。まだ古代ローマ帝国の西ヨーロッパ側(「西ローマ帝国」)が存在した時期からこの変化は始まっていて、私たちがラテン語の教本で習う「長短の区別」は、私たちと同じように「書いてもらって始めて区別できる」ようなものになっていたらしい。
 私は、教会発音で「ti+母音」の発音が「ツィ」になるのがどうもふしぎだった。「ツィ」は「ティ」に較べてそう発音しやすい発音ではない。むしろ「ツィ」から「チ」に崩れるのが普通だろうと思っていた。だから、教会発音で「ツィ」の音を保っているのは、「ci」(古典発音では「キ」)が「チ」になったこととの区別を無理やり保持するための人為的な発音変更だろうと思っていた。
 けれども、これは、民衆ことばの発音で、「ティ」がおそらく「チ」に崩れ、それがさらに「ツィ」に変化したという過程があったらしい。それが「キ」から崩れた音と区別するためなのか、イタリアの人たちにもともと「ツィ」と発音する癖があったからなのか、よくわからない(現在のイタリア語には「ツィ」音はあるはず。私が知っているイタリア語というと「ぷいにゅ〜」だけなのでよくわからないけど←これはたぶんイタリア語ではないと思います)。
 どうも、ラテン語では「ツ」の音が嫌われたらしく、「ツ」の濁音「ヅ」としてギリシア語から入ってきた「z」の文字もなるべく使わないようにされたらしい。じっさい、ラテン語では変化形とかで -ts- になりそうなところは -s- になってしまうらしいしね(まだそこまで勉強してないからよくわからないけど)。
 でも、どうなんだろう? 文法書に「ツ」の発音はダメ!とか書いてあるということは、実際にはそういう発音をする癖のある人が多かったから、という推定もできるかもしれないと思うのだけど。
 ラテン語の特徴であった「格」は、主格・属格・与格・対格・奪格(+呼格、ごく一部に方位格)から「主格とそれ以外」を中心に単純化されてしまった。そのかわり、ラテン語でも使われていた前置詞が発達して、前置詞を変えることで「格」に相当するものを表現するようになった。そのほうが、数の少ない「格」にニュアンスを持たせて使うより、楽でもあり、意味も多様に表現できるからだという。名詞形の単語の基本としては対格が残って、先に書いた「単語末のmの弱化」によって、「対格から最後のmが消えた形」が基本形になっていく。
 このへんを読んでいると、「あー、私たち学習者にとってややこしいところは、当時の民衆もスルーしたんだ」ということを感じて、なかなか心強い。
 それにあわせて、さっき書いた「主語+目的語+述語(動詞)」の「標準的な語順」も崩れて、「主語+述語+目的語」か「目的語+述語+主語」かが普通になった。そのなかで「主語+述語(動詞)+目的語」の語順が主流を占めて、現在の「ロマンス系」の言語に発展した。それと、ゲルマン系のドイツ語・英語の語順と、古代の漢族のことば=漢語の語順(現代漢語でも基本的に同じだけど)とが「主語+述語+目的語」で一致しただけで、「文明的なことばの語順は必ず主語+述語+目的語である!」みたいな、怪しげな、しかもヨーロッパの20世紀前半までの(ラテン語が必須教養だった)教養人にはあり得ない「教養の基礎」ができちゃったんじゃないか。
 この「民衆ことば」の「ロマンス諸語」への変化のひとつの特徴は、ラテン語はもともと「帝国共通語」であって、ローマ帝国内の多くの人にとって「民衆が生まれてからまず身につけたことば」ではなかったということだ。イタリアでさえ、ラテン語の古典期まで、オスク語やウンブリア語という、ラテン語と同系列だけど別のことばや、さらに早い時期に征服されたはずのエトルリア語まで残っていたという。それが、ローマ帝国の衰退と混乱のなかで、あるところでは話されなくなり、あるところではもともと話されていたことばと融合して、現在のさまざまなことばへと分岐していった。
 いまでは、英語とかフランス語とかが、もともとインド・ヨーロッパ語とは関係のない地域の人たちのあいだで受け入れられ、大胆に変化して、さまざまな「クレオール語」という変成言語へと発展しているらしい。それと同じ過程が昔からあったのだ。地元のことばもさまざまで、それが通じない人たちのあいだで「クレオールラテン語」をしゃべっているうちに、いまの「ロマンス系」の諸語が発展していったわけだろう。いまと条件が違うのは、一部の特権的な(または風変わりな)人が通う学校を別として、少なくとも「普通教育」を行う学校がなかったこと、テレビもラジオもなかったことだ。
 ところで、このラテン語についての本を読んでいてふと疑問に感じたことがある。それは、「書きことば」が存在することで、ことばは変化(語尾変化とかではなく、たとえばラテン語からフランス語へというような変化のこと)しにくくなるのか、それとも変化しやすくなるのかということだ。
 普通は「書きことば」が存在すれば、「書きことば」が基準となるので変化しにくいように思える。しかし逆も考えられる。「書きことば」がなければ、ちょっとでも崩れた言いかたをすると意味が通じなくなるので、「崩れたことば」への警戒心が強まり、変化しにくくなる。「書きことば」があれば、普通のしゃべりことばは崩れてもOKという安心が生まれて、「書きことば」からどんどん離れて変化してしまう。それが、文化の担い手の変化・拡散やカトリック文化の普及などという要素もあって極端まで行ったのがラテン語の例だと思う。どちらが普遍的なのだろうか?
 このあたりは、私の知っている言語の数ではとうてい歯の立たない問題だけど。
 っていうかさぁ、英語ってどう勉強したら身につくんだろう……?