猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

今度はエスペラントです

 エスペラントの勉強を始めてしまいました。
 ……っていくつ言語に手を出せば気がすむのか、という感じですが、えーと、古典ギリシア語はさっさと挫折しました。というより、あれは「好奇心」を持っただけだし。あれほんとに It's all Greek だわ。文法書を眺めているだけだから「あーややこしそうだけどおもしろそう」ですむのであって、ほんとうに身につけようとしたら、たぶんラテン語の数倍の努力が必要なのではないかと思います。しかも、変化表の暗記だけで相当にややこしいのに、実際の文章は、関係詞とか接続詞とかでぞろぞろつながって行く複雑な構文なんで、それは本格的に取り組むのは相当に覚悟がいると思う。
 ということで、古典ギリシア語はときどき入門書を眺めるだけです。
 ところで、エスペラントを学んでいる人自身は「エスペラント語」という言いかたを使わず、「エスペラント」と言うらしい。なぜかはわかりません。また、「エスペラントを学んでいる人」や「エスペラントを使いこなせる人」は、日本語表記では「エスペランティスト」(当のエスペラントでの発音はこれに近い)よりも「エスペランチスト」を使うことのほうが多いように思います。これは、日本語の発音体系で「タ行」の子音に「イ」がついた音はあくまで「チ」であって、「ティ」は外来語表記のためにあとから作られた表記法だからという意味づけがあるのかも知れません。たんに日本にエスペラントが普及した時代に「ティ」という表記があまり行われなかったからかも知れませんが。ともかく、ここでは、「エスペランチスト」の多勢(と私が思う流れ)に倣って「エスペラント」、「エスペランチスト」という表現を使うことにします。

 なぜエスペラントを勉強しようかと思ったかというと、いくつか理由があります。
 1. 英語が苦手で、「英語帝国主義」が嫌いだから いや、英語は立派な言語だと思うし、英語を話す人たちに立派な人たちもいるし、英語で書かれた立派な文学作品も文学以外の作品もあるし、だから英語に敬意を払うつもりは大いにあるのですよ。英語が国際共通語として実際に機能しているというのも理解しているしね。でも「苦手」であることに変わりはない。それに、「英語ができるのが国際人」はまだいいにしても(そうとも限らないと思うけど)、「英語ができるのが優秀な人材だ」、「人物を判断するには英語力を見ればいい」という基準を(「外資系」の企業の人でもないのに)堂々と公言する人たちが身近に現れてくると、しかもそれがほかの面では尊敬している人たちだったとすると、やっぱり「英語だけが事実上の国際語」というあり方をほんの少しでも変える動きに加わったほうがいいのかな、などと思ってしまうわけです。
 でも、まあそんなのはどうでもよくて、もとをたどれば 2. 宮沢賢治エスペランチストだったから という動機がけっこう大きい。もっとも宮沢賢治自身はそれほどエスペラントが巧かったわけではなく、わりと初歩的なミスもしているらしいけれど。
 私は高校時代から宮沢賢治の童話が好きで(当時は詩は読んでもわからなかった)、何度も繰り返して読んでいたのですね。その成果として(ほんとか?)、23日には賢治の故郷花巻で開かれた「TRIP」に参加してきたのですけど。それにしてもあの花巻のマルカンの食堂の「箸で食うソフトクリーム」はすごいですね。北東北は牛乳のものが美味しい。いや〜お世話になりました(ちなみに花巻・新花巻を通る釜石線の駅にはエスペラント駅名がついています)。
 で、私がエスペラントに具体的にはじめて出会ったのは、アニメ映画として映画化された『銀河鉄道の夜』ででした。劇中と字幕にふしぎなことばの綴りが使われていて、それがエスペラントだと知って、その何とはないふしぎさと軽い神秘性に惹かれたのですね。「軽い神秘性」というのは、英語ではあまり見かけない綴り、とくに「j」を半母音(英語の「y」にあたる)に使う表現や、上に「^」のついた文字(ヨーロッパ言語で「派生音」になりがちな音に使う。sの上につけて「シ」の音とか、gの上につけて「ジ」の音とか)に感じたものです。ローマ字を使っているから「重い神秘性」は感じなかったけど、でもなんか神秘的で魅力的に感じてしまったのですね。
 でも、当時の私には、エスペラントの本を買うおカネも、勉強している余裕もなかったので、勉強せずじまいでした。
 で、最近になってエスペラントに手を出そうとしたのは、 3. エスペラントは「ラテン語をものすごく平易にした言語」ではないかと思ったから です。
 エスペラントそのものやエスペランチストの人には失礼だと思うけど、せっかく苦労して、変化まで暗記してラテン語を勉強したのだから、ついでにその「簡易版」であるエスペラントも身におくのが得策だと思ったのですね。じっさい、ラテン語を学んでいる人には学びやすい言語だと思います。
 たとえば、ラテン語を学ぶときには修飾する語と修飾される語のあいだの「性・数・格の一致」を身につけなければならない。で、エスペラントには文法的に「性(文法性=ジェンダー)」が存在しないのですが、「数」と「格」の仕組みはあって(格は主格と対格だけ)、「数と格の一致」は守らなければならない原則です。それによって、ラテン語にあったあの「語順の入れ替えが比較的自由」という性格もエスペラントには残されている。修飾関係がほかの語を飛び越してしまうラテン語ほど自由でもないけれど、逆に言うとラテン語ほどごちゃごちゃもしない。
 この「数・格の一致」は、ラテン語のように厳格な一致が必要な言語を先にやっていれば「ああ、あれか」と受け入れてしまうけれど、格で単語の形が変化しない英語などしかやっていないと、あんがい難しいようです。
 たしかにそうで、「〜を」と言うときに名詞が「対格」(とりあえず「目的格」と考えていい)になるのはまだわかるにしても、なんでそれを修飾する形容詞まで「対格」にしなきゃいかんのか。日本語で考えると、「赤いリンゴを」とするのが自然なところを、「赤いを、リンゴを」とするなんてめちゃくちゃ不自然ではないか。そういうところを考え始めたらわけがわからなくなってしまいます。
 「(性・)数・格の一致」があるラテン語ではどう考えるかというと、「赤い」という形容詞がすでに「赤いもの」という名詞の意味も持っているので、「赤いものを」ととりあえず言っておいて、その実体がリンゴだと言いたければあとで「リンゴを」とつけ加える、そうすると、「赤いものを、つまりリンゴを」みたいにつながるという文法になっている(のだろうと思う)。ところが、形容詞と名詞の区別があいまいなラテン語と違って、エスペラントは形容詞を名詞とはっきり分けてしまった。だからその説明は通じない。けっきょく、「そのほうがごちゃごちゃしないとエスペラントでは考える」としか言いようがない。
 で、日本語や英語からエスペラントに入るとこのあたりで躓くのだろうと思うのだけど、ラテン語から入れば「ああ、ラテン語にあったあれを応用した文法か」と、とりあえずは理解できるわけです。
 単語もラテン語を知っていればすぐに理解できるものが多い。私はまだラテン語の語彙数もエスペラントの語彙数も少ないけれど、それでも「来る」、「走る」などがラテン語と共通しているのはすぐにわかります。母音が「ア、イ、ウ、エ、オ」だけなのも、日本語と共通であるとともに、ラテン語とも共通です(ラテン語にはほかに母音の「ユ」がありますが、これはギリシア語から来たことばに使うものです)。
 アクセントは、ラテン語がいちおう高低アクセントということになっているのに対してエスペラントは強弱アクセントですが、置く位置は共通している。ラテン語では、「後ろから2番めの音節が長ければそこに、後ろから2番めの音節が短くてその前にまだ音節があれば、その後ろから3番めの音節に」という規則、エスペラントは「常に後ろから2番めの音節にアクセントを置き、その音節がもともと短ければ長く発音する」です。何か違うようですけれど、エスペラントには「後ろから2番めの音節が短い」ということがあり得ないのですから、ラテン語の「後ろから2番目の音節が長ければそこにアクセントを置く」という規則が生きているわけです。
 なぜこんなに「ラテン語っぽい」のだろうかと思ったら、開発者のザメンホフが医者で、ヨーロッパの医者はエリートなのでラテン語教育を受けているのだな。それだけでなく、実際には「エリートだけだけど通用するヨーロッパ共通語」というのが近代ヨーロッパ世界にはすでに存在したわけで、それがラテン語だったわけです。だとすると、その「エリートだけに通用するヨーロッパ共通語」を簡易化して「民衆も使えるヨーロッパ共通語」を作ろうという発想になるのは当然でしょう。
 そして、もう一つ、勉強しようと思った理由は 4. 「ラテン系」っぽくて明るく陽気な言語だから です。エスペラントが嫌いなイタリア人が聞いたら怒るかも知れないけど、イタリア語みたいなのです。もっとも、私はイタリア語は「ぷいにゅ〜」以外知らないので(だからそれは違うって)、正確にいうと、「NHK教育テレビの昔のイタリア語会話ジローラモが大声でしゃべっていたイタリア語みたいな感じ」です。あのころは勉強する気はなかったけど見てたからね。池澤春菜さんが見たくて(というより声が聞きたくて)フランス語会話を見ていたこともちょっとだけある。これも、フランス語を身につける気はまったくなかったので、まったく身につかなかった。
 ともかく、英語と違って母音比率が高く、しかもいつも後ろから二つめの母音にアクセントがついて、しかもそれが必ず長く発音されるので、発音していると抑揚がきいて陽気なんですね。それで、これはいいと思ったわけです。
 ラテン語は学んでも、カトリック教会に就職して、しかも偉くならないかぎり、ラテン語で自分の考えを綴り、発表する機会は、無理やり作らないかぎりまずないでしょう。ラテン語は、今日、必ずしも「死語」ではないといっても、やはりラテン語の知識をそのまま活かす場はそれほど多くありません。でも、エスペラントならば、自分の考えをこのことばに乗せて表現できる、だってそのために考えられたのだから、という期待もあります。
 ただ、エスペラントでは、すでに確立された複合語をたくさん覚えなければいけないというのがあるみたいで、語彙を増やしていくというのはやっぱりたいへんなようです。でも、それはどの言語でもそうだし。

 ところで、エスペラントは「世界共通語」として設計されたわけですが、19世紀のことですから、当然、それは「ヨーロッパ共通語」です。しかも、ヨーロッパ語でも、基本的にラテン系、一部にゲルマン系で、それ以外にスラブ語や古典ギリシア語の要素も少し取り入れられているらしいけれど、フィンランド語やハンガリー語バスク語の要素は入っていないと思う。だから、もし、将来、言語資料だけが残って、だれがどんな言語を話していたかがわからなくなってしまったら、将来の比較言語学者は、エスペラントを「インド・ヨーロッパ語族の一言語」として、それも「ラテン語からゲルマン語などの影響を受けて発達し、その過程で文法面などで何かよくわからない変化を起こした言語」として位置づけてしまうだろうと思います。
 だから「日本人には不利」と見るか、それとも、ヨーロッパ人のように「エスペラントはここがうちのことばに似ているけど、ここが違うから取っつきにくい」などと感じてしまわないだけ有利と見るかは、それぞれでしょう。ラテン語についても、日本人がいちばんすなおに「古典発音」ができるという利点があるわけです(vを「ヴ」でなく「ワ行」で読むなどいくつか気をつければ、そのままローマ字読みすればいい)。古典ギリシア語の古典発音だって、日本人や、もしかすると現在も「帯気音」の発音を残している中国人・韓国人のほうが巧くできて(中国では「有気音」、韓国では「激音」という。なお北朝鮮で何というかは知らない)、現代のギリシアで民衆語「デモティキ」を話している人たちにはかえってそれこそ「It's all Greek」な発音なのではないでしょうか。
 ザメンホフが意図したことではないと思うけれど、エスペラントも思わぬところで「インド・ヨーロッパ祖語」の影響を引きずっています。英語でいうbe動詞の「est」(に語尾がつく)もそうです。それより興味深いのが、疑問詞関係がすべて「ki」で始まるという規則です。インド・ヨーロッパ語族の祖語では、疑問詞の多くが「k」と「w」が一体化した「クゥ」みたいな音で表現されていたと推定(「再建」)されています。だから、ラテン語の疑問詞は「qu」で始まるものが多い。英語に行くとこれが「what」や「where」の「wh」になり、さらに英語は「quality」とか「question」とか、ラテン語起源のことばを受け入れて、英語でもこのはるか昔の「インド・ヨーロッパ祖語」の「kw」が「wh」とか「qu」として保存されているのです。で、エスペラントも、その「kw」を「ki」にして保存しているというわけです。これを、インド・ヨーロッパ祖語からつづく言語の生命力のあらわれと見るか、「piでもtiでもよかったのだが、たんにヨーロッパのことばに多いからk系のkiを便宜的に採用しただけ」と見るかで、言語観が違ってきますが……でもどっちにでも考えられます。

 ということで、私は「世界語の理想」に共感してエスペラントを始めたわけでもないし、「みんなでエスペラントを学ぼう」という運動に参加したくて始めたわけでもありません。エスペラントの思想とか理想とかに興味はあるけど、いまのところ、自分でその思想に入れこむつもりはあまりありません。
 ことば自体への興味と、そのことばが陽気でおもしろそうだからという理由、そして、宮沢賢治がこのことばで表現しようとした言語だからという動機です(ところで、宮沢賢治の動物寓話で「ホモイ」という主人公の動物――うさぎだったかな?――が出てくる作品があったと思うけど、「ホモイ」はエスペラントで「人間たち」ですね)。
 それでいつか「英語帝国主義者」に一泡吹かせてやれれば嬉しいと思うけど……まあこれはそういう機会もなさそうな気がするので、あんまり期待しないことにします。

 ところで、私がいま使っているのは、大学書林の『エスペラント四週間』(asin:4475010160)という、いまとなっては40年以上前に出た相当に古い教科書です。新しく出た教科書も何冊か見たし、買ったのもあるのだけど、何か例文とかがしっくり来ないのですね。
 で、この教科書を見てみると、やはり「古い」だけあって、もう「訳」と「読解」ばかりです。訳と読解というと、「日本の英語教育はそればかりだからダメなんだ」と言われている典型みたいなもので、評判が悪い。でも、けっきょく、これがいちばん語彙数も増やせるし、早く進めるし、文法も押さえていけるので、捨てたものではないと思います。
 けっきょく「訳」のどこがいけないかというと、「日本語にする」ことが目的になってしまって、外国語(エスペラントを「外国語」というのかどうかは知りませんが)が表現していることを直接に思い浮かべたり感じ取ったりするというところに行かないことなので、その部分をしっかり慣れるようにしていけば、「訳中心」の教科書はそんなにデメリットはない。「読解」も同じで、「日本文にすること」に最終目標を置いてしまって、逐語訳ができているかどうかで減点されたりされなかったりするので、そこにばかり気が行ってしまい、「原文の読解」自体が抜け落ちてしまうからではないかと思います。

 と、こんなところで、挫折を恐れず、ということは、「挫折したならそれはそれでいい」と思いながら、まあしばらく続けてみようと思います。