猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「civil」と「political」

 さて、最初に、今回の翻訳での訳語について思ったことを書いてみたいと思います。
 まず、 civil と political についてです。
 この『統治二論』の「第二論」は、これまで普通「市民政府論」と呼ばれてきました。英語では civil government です。ところが、今回の新訳では、「市民」ということばを使わず、 civil を「政治(的)」と訳しています。だから、「第二論」のタイトルも、「市民政府論」ではなく「政治的統治について」となっています。Government のほうも、「政府」という組織を指す表現を避けて、「統治」という訳語を使っています。
 著者によると、ロックの用法では、 civil と political は同じ意味であるということです。私たちは、 civil を「市民(的)」と訳し、 political を「政治的」と訳しています。従来の訳でもそのように訳し分けているらしいですが、そういう使い分けはじつはロックは行っていない。
 20世紀後半の進歩派・左翼的な発想では、「国家」と「社会」、「政治」と「市民」は区別するべきであり、また、対立的なものと捉えられてきました。「市民」が自発的に「社会」を形成する。これが「市民社会」である。普通に暮らしている「市民」たちが、自然に、自発的に作るのが「社会(市民社会)」という集団だというわけです。その「社会」の上に「国家」というのが覆いかぶさってきて、「政治」を行う。マルクス主義的な説明と混ぜ合わせると、「国家」というのは支配階級の利益のために支配階級がでっち上げたもので、一般の「市民」はそんなものには関わりがないということになる(「市民」が「支配階級」ではないという発想が、たぶんマルクス主義的には問題があるはずなのですが)。
 この発想が、ロックの「第二論」の最後に述べられている「抵抗権」論と組み合わされると、「国家」が、「市民社会」の意志に反し、「市民社会」の利益を侵害したりすれば、その「国家」の政府を倒す権利が「市民社会」の側にあるという議論になります。