猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

小田実と日本の「市民」論

 このような「市民」論の発想は私は小田実さんの本で知りました。社会的にみても、日本社会で「市民」ということばにくっついているさまざまな感覚が成り立ったのは、小田実さんや、小田さんといっしょに「ベ平連」の活動をしていた人たちの影響は大きかったのではないでしょうか。現在では、国家から独立した自律的な「市民社会」、また、「国家」と対抗するものとしての「市民社会」というと、ハーバーマスの「公共性」論から語られることが多いようですが、日本社会での「市民」をめぐる議論を考えるときには、小田実さんたちが果たした役割は無視できないと思います。いや、ハーバーマスの『公共性の構造転換』は読んでみたけど50ページも行かないうちに挫折した者の言うことですから、まあ、そういうものとして受け取っていただければいいのですが。
 日本社会で政治とか社会とかを議論をしながら、小田実やその周囲にいた人たちをさっさと忘れてしまうというのは、私はあまりいいことだとは思いません(最初から小田さんたちの活動を知らない人たちはもちろん別です)。たしかに、いま、小田さんがいて、1960〜1980年代当時と同じことを言っていれば、私はまったく相手にしないと思う。しかし、それはそれとして、過去に社会的影響力を持った思想として位置づけなおすことは必要だと思います。すくなくとも、そういう日本社会での「市民」論の流れを無視して、「市民社会というとハーバーマスの……」と議論を始めてしまうことに、私は強い違和感を感じます。
 とは言うけど、私は小田実の書いたものはもう10年以上読んでいない。最後に読んだのは、たしか、1993年の細川内閣成立のときに新聞に載った文章だったと思います。でも、大学生の時代にはいちおう「市民」派を気取っていた人間としては、いつかは小田実の議論については「自分なり」に整理をしてみたいと思っています。