猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「幹部」層の弱み

 そんなわけで、あんまり有能じゃないトップが強い権力者意識を持ったことが、室町幕府を混乱させる要因になるわけですが、じゃあ、「将軍は動かなくても幕府は動く」という仕組みのほうはどうだったのか?
 ――というと、これがまたあまり安定していなかった。
 これは、室町幕府の「幹部」層の性格に問題の根源があります。
 管領などの室町幕府の「幹部」層は守護として日本各地に「国」を持っている。しかも複数の国の守護を兼任している。さらに、この時代、朝廷貴族(公家)や寺社に対する守護の実力は鎌倉時代より強くなっている。たとえば、室町時代には、いちおう平安時代以来の荘園制が残ってはいるのですが、守護やその部下がその荘園からの収入を押さえてしまうのです(「半済」とか「守護請」とか日本史の教科書に出てたと思う)。そういう基盤を背景に、管領その他の室町幕府の「幹部」は政治を動かすわけですが。
 その「守護としての基盤」に、強みと同時に弱みもあって。
 つまり、複数の国の守護を兼任し、中央政府(幕府)の重職を担っている――ということは、ご本人は中央政府にいる。新幹線もない時代のことだから、週末ごとに自分の地元に帰って地元の世話に走り回り、自分の存在をアピールするということもできない(いや、まあ、「週末」自体がこの時代にはないですけど)。
 だから、かんじんの「自分の国」は代官に任せるしかない。この守護の代官が「守護代」と呼ばれ、地元の実力者であるわけです。
 15世紀の半ばから、この守護代やそれと同じような立場の地元実力者が力をつけてくる。それに対して、管領家などの幕府の「幹部」を務める有力守護は、ほとんどが家の中に「お家騒動」の火種を抱え、その火種を抱えているものだから、「お家」内部のそれぞれの派が自分の勢力確保のために武力紛争を繰り返す。そしてそこに義政が介入してくる。その紛争で地元がお留守になった隙に、または、その紛争を利用して、その守護代などの地元実力者が影響力を強め、ついに有力守護を無力化してしまう。つまり、幕府の「幹部」層が無力になってしまうわけで、その面からも幕府は機能しなくなってしまいます。
 その到達点が、1790年代の「明応の政変」であり、北条早雲の登場だったということになるのでしょう。