猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

宮沢賢治作品への関心?

 あと、今回は、一昨年(もう一昨年なんだな)に作った『春と修羅量子力学』と、昨年の11月に作った『銀河鉄道の一番列車をたずねて』を持っていきました。あるいはタイトルからわかるかも知れませんが、どちらも宮沢賢治関係の評論のような本です。「のような」というのは、とくに『春と修羅量子力学』のほうは、作品にそれほど深く触れているわけではないからですけど。これを書いたときには新潮文庫の『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎 編)しか使わなかったし(ちくま文庫の文庫版全集は持っていたのですが、引っ越しのときにばらばらになって、どこに置いたかわからなくなってしまった。詳しく調べるときに必須の校本や新校本は持っていません)、どっちかというと「これから読んでみるぞ」宣言みたいな感じですし。
 で、そういう本を置いていると、宮沢賢治に関心がある、最近、調べはじめているとおっしゃる方が何人かいらして。これは宮沢賢治作品が好きな者として嬉しかったです。前回(SC53)のときにも関心を持って買っていってくださった方がいらっしゃいましたし。
 昨年の末に東京の立川で開かれた宮沢賢治学会のセミナーで、東日本大震災以来、「雨ニモ負ケズ」が、国内外、ネット上でもネット以外でも大きく採り上げられているというお話がありました。そんなことが影響しているのかな、とも思うのですが、どうなのでしょう?
 宮沢賢治の「近代文学」のなかでの「立ち位置」は、宮沢賢治自身がどう感じていたか、どういう「立ち位置」に立ちたかったかということは別にして、独特なように私は感じます。これは、校本全集〜新校本全集編集の中心人物の天沢退二郎さんや入沢康夫さんの文章を読んでいてもそう感じますし、池澤夏樹先生は『言葉の流星群』でもっとはっきり書いていらっしゃいます(と、池澤先生のお嬢様のアルバムを聴きながらこれを書いていたり……)。私は「近代」の小説とか評論とか童話とか、まして詩とかはほとんど読みません。宮沢賢治の作品も、中学生から高校生のころに読んで中断し、大学生のころにもいちど読んでまた中断し、生誕百年(1996年=平成8年、ってもうそんな前だよ! このとき「平成ひと桁」で、いま「平成20年代」なんだし)のころに読んでまた中断し、というように、離れていた時期も長い。
 でもここ1年半ほどは興味がつづいています。コミックマーケットに出す本に執筆したり(自分自身の参加は、サークル参加・一般参加ともにここしばらくご無沙汰していますが)、他の即売会に小説や評論を書いたりしている私には、宮沢賢治作品は、へんな表現を使うと「垣根なしに隣につながっている」作品のように身近に思えます。
 たとえば、『まどか☆マギカ』の11話でキュゥべえが家畜のたとえを出したとき、私はすぐに「ああ、これは「フランドン農学校の豚」だ」と思いました。「フランドン農学校の豚」(「ファリーズ農学校での幻想」というような作品に改作する意図のまま改作されずに終わった?)は、学校で飼われている豚に知能があって(豚と人間のあいだで会話が通じる)、豚自身の同意なしには豚を殺してはならないという決まりがあるという設定の童話です。11話のキュゥべえにまったく罪悪感がないのは、この童話で豚を(食肉にするために)殺そうとする農学校の校長や教員や学生たちに罪悪感がないのと同じです。いろいろ違うところもありますけど。
 天沢退二郎さんは宮沢賢治の書いたものを同時代の詩や映画や学問の状況のなかに置いて考えなければならないと書いておられ、それはまったくそのとおりだと思うのですが、一方で、宮沢賢治作品と『まどか☆マギカ』でも同じような「同時代の作品」感が成立しているように私は感じたわけです。
 そんなこともあって、これからはときおり宮沢賢治作品を読んで感じたこと・考えたことをここに書いていこうといま思っていたりします。もちろん、「宮沢賢治読み」としては私は初心者だし、私が思いつくようなことはこれまでにだれかが思いついていると思いますけれど、私自身の備忘録、そして、私自身が宮沢賢治作品を読み進めるための記録みたいなものとして。