猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

佐藤通雅『賢治短歌へ』洋々社 isbn:9784896742206

 佐藤通雅さんは、宮沢賢治研究家であるとともに、ご自身も歌人でいらっしゃるとのことです。その佐藤通雅さんが、宮沢賢治の短歌作品について論じたのがこの本です。
 佐藤通雅さんの本では、前に『宮沢賢治東北砕石工場技師論』(同じく洋々社刊)を読みました。宮沢賢治が晩年に取り組んだ文語詩について、賢治が残した手帳なども用いつつ、賢治がどんな思いでどんな生活を送っていたかを跡づけながら論じた本でした。
 作家の「伝記研究」をやると、どうしても「この作品はこういう状況の下で書かれたものだ」という説明で作品の全体を説明してしまうことになりがちです。「激しく悩んでいた時期だからこの時期は暗い作品が多いです」みたいな。でも、実際には、書くものと実際の生活の状況には落差があることもあって、そういう説明では取り落としてしまう一面もある。だいたい、「これを書いた時期には作者はこんな生活をしていて、だからこんな気もちだったから、この作品はこんな感じです」という説明ばかりやっていると、その説明は作品自体の解明から逸れて行ってしまいます。
 賢治(宮沢賢治)のばあい、その生涯がけっこうドラマチックだということもあって、「この作品を書いた時期は賢治にとってこういう時期で……」という説明がわりと通用しやすい。代表的なのは、妹とし子(トシ)を失ったときの「永訣の朝」ほかの一連の詩で、これはやっぱり「最愛の妹を失った」という状況を抜きにしてはなかなか語りにくい。
 でも、賢治のばあいだって、そういう説明の方法がいつでも通用するわけではない。
 たとえば、「銀河鉄道の夜」で、「カムパネルラのモデルはだれか?」という詮索がよく行われる。やっぱりとし子だとか、青年時代の親友の保阪嘉内だとか、いろいろ言われる。でも、たとえそれがわかったしても、それで「銀河鉄道の夜」という作品がものすごく理解しやすくなるかというと、じつはそんなことはありません。
 だいたい、「銀河鉄道の夜」では、「カムパネルラのモデル」捜しはあるんだけど、ジョバンニのモデル捜しというのはあまりやらない。少なくとも私は接したことがありません。多くのばあい、「賢治=この物語の作者=ジョバンニ」という読みが自明の前提になっている。ところが、賢治自身がジョバンニに似ているかというと、似ているところもありますが、似ていないところもある。たとえば、ジョバンニは、父親が不在で帰って来ない可能性もあり、母親は病気、したがって家は貧乏で自分は印刷所で働いている、だから大きなイベント直前は修羅場でイベント当日は朝からビッグサイト……なんてことは書いてないけど(あたりまえだ! いや、印刷会社のみなさまいつもありがとうございます)、ともかく貧しい子である。しかし、足が速いのをひそかに自慢にしているくらいで、身体的なコンプレックスは持っていない。賢治は、家は裕福で、父親は地方の有力者、母親もとても親切な人で、家庭には(父親への反発、家業への反発とかいろいろあるけど)ともかくも恵まれている反面、自分が病弱なことにコンプレックスを持っている。まったく逆です。「逆だからこそ、賢治は「あり得た自分」をジョバンニに投影しているのだ」という読みはやろうと思えばできます。でも、むしろ、カムパネルラが、家が裕福で、写真入りの「銀河」の図鑑を持っているとしたら、そっちのほうが賢治だろう、という読みかただってできるはずなのです。だとしたら、カムパネルラが、いちばんの親友というわけでもないいじめっ子を救うために危険を冒した理由を、賢治自身の倫理観と重ねて考えられるかも知れません。
 あるいは、自分の家に天体図鑑があって、自身が教育者で、自分の不幸にもかかわらずほかの家の子どもにおだやかなやさしいことばを自然にかけられる、ということであれば、賢治が自分を投影しているのはカムパネルラのお父さんの「博士」かも知れない。いや、じゃあ、「博士」というのならば、原稿で最終的に消去された「ブルカニロ博士」はどうなんだ、とか、いろんなことが考えられるわけですね。
 そういうことを考えて行けば、いろんなことが「派生」的に考えられる。たとえば、賢治は、現実には結婚しなかったし子どももいなかったわけですが、結婚して家庭を持てばカムパネルラのような息子がほしかったんだろうな、といちおう仮定してみると、いろんなことが考えられる。たとえば、カムパネルラの母親というのは直接は物語に登場しないのに、カムパネルラがときどき母親を気にする発言をしている(しかもそれが矛盾しているっぽいのだけれど)。それはなぜか、ということを考える一つの「補助線」にはなるかも知れません。
 だから、実際の賢治の生涯と作品とを照らし合わせてみるのはけっして無益ではないし、やったほうがいいのでしょうけれど、でもそれだけで賢治作品がとてもよく理解できるというわけではない。
 とくに、よくわからない「謎」の一つが、賢治が、大病のあと、30歳台なかばで「文語定型詩」(五七調や七五調)という形式の詩に熱意を示し出すのはなぜか、ということです。これは、賢治の生涯を追ってみても、よくわからない。せいぜい「病気で体力が衰えて、精神力も感性も衰えたので、日本の伝統というものに安易に寄りかかった結果だろう」というような解釈が出てくるくらいです。ところが、体力は衰えても身体を酷使して自分を追いつめてしまうのが賢治というひとで、体力が衰えたから伝統的な形式によりかかった、などというのは無理がある。また、「日本の伝統」によりかかっているだけでは、「巨豚ヨークシャ銅の日に/金毛となりて駆け去れば」なんて詩句は出てこないでしょう。伝統的な五七調や七五調の詩歌に、伝統的な詩歌では題材にならないような題材を入れ、伝統的な詩歌では行われないような表現を行う。それが賢治にとっての「文語詩」であって、「大病で体力が衰えた」のなら、なんでいきなりそんな大それたことを始めるんだ、という問題に、じつは取り組まないといけない。
 で、佐藤通雅さんの前著『宮沢賢治東北砕石工場技師論』は、その文語詩の「謎」に取り組んだ「意欲作」であり、しかも精密な実証を積み重ねた労作だったわけです。賢治の生涯にとってこの文語詩を作った時期がどんな時期であったかをさまざまな資料から読み解きつつ、同時に、作品自体を読み解くことを通じて、伝記と作品論の両方から「賢治のとっての文語詩」の意味を探り出そうとする。私はそれほど文語詩論を読んだわけではないのですが、私の読んだ範囲でいうと、賢治が30歳台なかばで文語詩に熱意を燃やしたことの実相に最も肉薄した批評ということができると思います。
 というわけで、今回、書店で、その作者の佐藤通雅さんが、今度は賢治の初期の作品である短歌群を扱った『賢治短歌へ』を見つけたので買ってきました……というところで、ここまでで長くなってしまったので本論は「次回に続く」なのでありました。