猫も歩けば...

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「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第3回

 宮沢賢治というとやっぱりまずは詩(口語詩)と童話の作家であって、それ以外の文語詩とか短歌とかは、「賢治について詳しい人は知ってるよね」程度の認識で終わってしまいがちです(あるいは「そんなのあるの?」とか)。しかも、賢治の詩に関心を持つ人も、『春と修羅』(第一集)への関心が強くて、『春と修羅 第三集』などになると「はい? 『春と修羅』に第三集ってあったの?」というくらいの関心という例が多いのではないかと思います。
 こういう傾向はじつは愛好者だけではなくて、戦後の賢治論の基礎を築いたような文学者でも、もちろん賢治の主要作品はぜんぶ読んでいたとしても、『春と修羅』(第一集)の詩を基準に他の詩を評価するとか、「雨ニモ負ケズ」を基準に他の作品を評価するとか、そういう論じかたをしてきました。そういうことをやっていると評価からこぼれてしまう作品群の代表が、晩年の文語詩であり、また初期の短歌です。初期の短歌は「若書き」で未熟で文学的価値が低い、晩年の文語詩は創作力が衰えて日本の伝統に安易によりかかっている、という評価になってしまう。
 こういう評価に対して、それぞれ正当な評価を与えようと、作家研究と作品研究の両面から迫っている一人がこの本の作者の佐藤通雅さんです。
 しかも、賢治の短歌は「ヘンな短歌」が多いので、「未熟」とか「つまらない」とか言われてきたらしいんですね。
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