賢治の短歌はヘンでおもしろい!
私のばあいは、そういう評価を知る前に読んだので、「なんだこれは?! とってもヤバげでおもしろいじゃないか!」と思ってしまいました。
とりあえず、どんなふうに「ヘン」なのか、いくつか実例を紹介したいと思います(なお、ところどころ書き改めたり()で漢字を補ったりしています)。
「なつかしいおもいでがあった。目薬のしみた白い痛みの奥になつかしいおもいでがあった」という歌です。
なつかしきおもひでありぬ目薬のしみたる白き痛みの奥に
目薬会社さん宣伝に使いませんか? 「青春目薬っ!!」って感じですよ。
これは、現在の短歌として読めばそんなに特異ではありませんが、この当時としてはわりと新しい感覚ではないかと思います。この時代の普通の短歌では「なつかしきおもいで」につづいていきなり「目薬」は出てこないだろうと思う。
まあこれぐらいはいいんですけども。
なんですかそれは? ブリキ缶がどうやってにらむんですか? というかいったい何があったんだ?!
ブリキ缶がはらだたしげにわれをにらむ つめたき冬の夕方のこと。
いや……癒えてないんじゃないかなぁその病気……? なんかアブナイ感じがするぞ。だいたい「ネオ夏型」ってなんだよ?
雲はいまネオ夏型にひかり(光)して桐の花桐の花やまひ(病)癒えたり
下の句が「派手に字余り」というより「五‐五‐七」になっているのがおもしろいと思います。これが、「桐の花咲きやまひ癒えたり」ならば、なお「ネオ夏型」の件があるにしても、そんなにヘンな感じはしない。歌としてうまく収まっている。ここが「桐の花桐の花」になっていることで、みょーに躁的な感じが出てくるわけです。
もうちょっと研究的なことを言うと、「ネオ夏型」は、後に「蛙のゴム靴」に出てくる、「雲がペネタ型(積乱雲の「かなとこ雲」のような形らしい)」につながる発想かも、と思います。
「私の頭はときどき私に異世界の冷たい天を見させることがある」……いやアブナイ。アブナイぞ。
わがあたま
ときどきわれに
こと(異)なれる
つめたき天を見しむることあり
「いや、ときどき異世界が見えるんだよっ!」と、現代の若者が主張しても「中○病」とか言われてしまうのがオチでしょう。けど、これ100年前ですよ。テレビをつけたら異世界アニメをやっているというようなそんな時代ではぜんぜんないわけですよ。その時代にこの想像力というのは、すなおに、すごいな、と思います。
そこで、もう一個、ヤバげなやつを。
これは気もちわるい(原文は「関節」が「関折」になっているのでいっそう気もちわるいのだが、誤記の可能性もある)。その「動物」としてどんな「動物」を考えるかにもよるけど、そんなのが、汚水にはびこる藻のようにかたまって脳をはねあるく、って……。
目は紅く
関節多き動物が
藻のごとく群れて脳をはねあるく。
中島らもの初期の小説に「頭の中がカユいんだ」という作品があるらしい。私は未読で、筒井康隆先生の本で知りました。やっぱりサイケっぽい小説のようです。この歌はそれに迫る感覚があります。なお「Itch In My Brain」というのはユートピア(トッド・ラングレンのバンド)の1983年の曲でもあります。
賢治の病気のときの幻想というのは独特なものがあって、このずっと後には「丁丁丁丁丁」という、これまた謎っぽい詩を書いたりするのだけれど。
いや、それにしても、だいじょうぶか、この人?
これも、下の句字余り連発「八‐八」で読むよりは、「藻のごとく/群れて/脳を/はねあるく」で切って「五‐三‐三‐五」で読むほうがいいのかも知れません。
もひとつ、ヤバげな「契約」っぽいのを。
南の空のさそり座よ、もしおまえが魔物なのなら、あとで血はとっていいから、まず力をくれ!
南天の
蝎よもしなれ(汝) 魔ものならば
のちに血はとれまずは力欲し
……まあ青春っぽい「あとさき考えなさ」といえばそうだけど、自分の血を与えて魔物と契約する、しかも契約を急いでいる、っていうんだから、やっぱヤバいよね。なお、この歌に触発されて魔法少女ものを書いてしまった私の過去はいちおう封印しよう。あれもまた書き直したいのだが、いずれにしてもここではあまり関係がない。
そういえば、跳ね歩いている目の赤い動物って、アレか? あの白くてしっぽの大きいやつ。でも、あいつは少女専門のはずだし……。
後の「銀河鉄道の夜」での清冽な「さそりの火」とはまったく印象が違うのが興味深いところです。でも、このころからさそり座のアンタレスの赤い光に深い印象を抱いていたというのは、なかなか興味深いところです。この歌に限らず、金星の歌も複数あって、若い賢治は星の光に敏感なようです。
あ、入試よりも百合っぽい本の即売会を優先したってことね。今年は3月に GirlsLoveFestival あったしね。
友だちの
入学試験ちかからん
林は百合の
わか芽萌えつつ
……いや、これはまあ、違うと思います。それにしても「百合のわか芽萌えつつ」って響き、いいよなぁ……。
まあ、というように、百合はともかく、かなりヤバい、サイケデリックな短歌が賢治にはいっぱいあるのです。
ただ、「サイケでわけがわからない」というのではなく、サイケデリックであってもそれぞれすぐれていると私は思います。「ブリキ缶が自分をにらんでいると感じてしまうような冬の寒さ、冬の孤独さ」、「病気の回復期の高揚感のただなかから見る、東北地方の初夏の夏空と桐の花」というのがきちんと描かれている。なお『桐の花』は北原白秋の詩集の題名でもあります。また、賢治作品に詳しい人なら、「桐の花‐やまい」という関連から、後年の文語詩「祭日(二)」を連想するかも知れません。
しかも、こんなサイケ短歌ばっかりじゃなくて。
鳴くのをやめた鳥の姿を求めて涙を流した。木々が乱れて葉の裏が白く見えている(=そうなるほどに風が強い)ので(鳥が飛ばされて苦しんでいるのでは、と思って)。
なきやみし
鳥をもとめて
泪しぬ
木々はみだれて葉裏をしらみ。
これは、ちょっと感傷的だけれども、サイケではなくて普通に優れた短歌だと思います。しかも「風」ということばを一言も入れずに、平和に鳥が鳴いていたところにいきなり強風が吹いてきたときの荒涼としたありさまをよく描いている。技巧的にもよくできている。
賢治の短歌って、文学者としての非凡さを思わせる作品だけでなく、サイケでやっぱり非凡な作品がけっこうあって、それが次々に出てくるわけです。
いや、現在ならアリだと思いますよ。新房昭之監督に映像をつけてもらいたいくらいに。しかし、これが、1910年代の「近代短歌」だと言われると……どうなんだろう?
やっぱ違うんじゃないか、と思うので、それを「賢治短歌」という一ジャンルなのだ、というのであれば、それは確かにそのとおりだと思うわけです。
で、佐藤通雅さんは、ただ「サイケだ」ですますわけではなく、そういうなかでも作風がどう変化していったかを、例によって、手紙その他の資料から見る伝記的な研究と、作品そのものの研究の両面から詰めて行きます。
さらに続きます。
なお、賢治の短歌は、ネット上では
http://why.kenji.ne.jp/tanka/tanka.html
などで読めます。そのなかでどこを読もうか迷ったら、まずこのへん:
http://why.kenji.ne.jp/tanka/bt0304.html
はいかがでしょう? なお、ここに掲げたページ「宮沢賢治作品館」では本文の採りかたが違うため、「ネオ夏型」の歌などは私が引用したのとは違っています(決定稿ではない原稿のまま残っているので、本文の採りかたが複数あるのです)。大ざっぱに言えば、「宮沢賢治作品館」は「校本全集」依拠で、私の引用はその後に編集された「新校本全集」によっています。