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【宮沢賢治】「短歌歌人」としての賢治の生涯

 「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第4回です。
 この本で、佐藤通雅さんは、賢治(宮沢賢治)の(旧制)中学入学以後の足跡をたどりつつ、賢治の短歌を時期ごとに読みこんでいきます。
 佐藤さんが重視しているのは、賢治が、中学校に入って寮に入り、「自分だけの空間」を手に入れたということです。当時は学生寮が個室ということはなくて、同年代の寮生といっしょですが、それでも自宅でいつも親の視線を気にしていなければならない状況と較べると、同年代の友人のよい影響・悪影響を含めて、自分だけでいろいろなことを考えられる空間を手に入れたと言える。そういうなかから賢治の「文学」の行いが始まってくる点に佐藤さんは注目しています。
 なお、佐藤さんは、このなかで、「中学生宮沢賢治」を語るときに必ずといっていいほど出てくる「銀時計事件」を相対化しておられます。銀時計事件とは、中学に入学したとき、父の政次郎が寮の監督役の教員(舎監)の前でわざと大きい銀の懐中時計を巻いて見せびらかして、その教員にあざ笑われたというものです。賢治の自分の家への嫌悪と父親への反発、そういう家と父親を持つことの「恥ずかしさ」の意識を語るエピソードとして重視される(賢治自身も後年までこだわっていた)のですが、佐藤さんは、短歌を検証しつつ、ほんとうに父政次郎は時計を見せびらかす目的で時計を巻いたのか、またその当時から賢治がそのことに嫌悪や負い目を感じていたのかということに疑問を出しておられる。これは鋭いと思いました。
 その後、中学時代の「反抗期」、最初の入院、看護婦(現在なら「女性看護師」)への思慕、「家業の跡継ぎ」を期待されて家にいる鬱々たる日々、盛岡高等農林への進学と再びの寮生活、同好の友人たちとの出会いと同人誌作り、高等農林卒業、再び家に帰った後の日々、親友保阪嘉内との手紙のやりとり……と、時代を追い、「文学」としての賢治の短歌=「賢治短歌」の始まりから「短歌時代の終わり」へと、伝記上の事実に重ねて作品を読んでいきます。何度も繰り返したように、「この時期はこういう時期だから作品はこういう特徴」と一刀両断するのではなく、伝記上の事実を見ながら、同時に作品を読んで行く作業が続きます。
 ちなみに、前に紹介したような「ヘンでサイケな短歌」はいろいろな時期にも出てくるのですが、佐藤さんは、それを一括せず、時期ごとに分けて特徴を論じておられます。
 これも前に書いたように、「近代文学」では、短歌は「一人称の文学」ということになっているのだそうです。つまり「自分が」という主体がいつも存在する。たとえ風景を歌っているだけであっても、それを見ている自分、その風景を前に考えている自分というのが、必ず存在する。そして、中心は、その風景の説明ではなく、それを前にしている自分のほうにある。「近代短歌」とはそういうものなのだそうです。「近代短歌」が戦争へと向かい戦争をたたえる時流に抵抗できなかったことへの反省(文字どおり「自分を振り返って問うてみること」)から「前衛短歌」が生まれる。「前衛短歌」はその「一人称」を複数化することを試みる。しかし、賢治の短歌はその「前衛短歌」とも異なっている。
 では、どこが違うか。それは、短歌は「一人称」で何をやるか、ということとかかわってきます。思ったり考えたりもするわけだけど、風景を前にしたときには「見る」。見て、そこで見たものを歌にする。聴くことも嗅ぐことも含まれているので「感受する」という意味での「見る」です。
 でも、それは、ただ「見る」だけではなくて、それを歌に書きとめることを通じて、「見て、支配する」という方向を、近代短歌は持っている。もともと何の意図を持って配されたわけでもないものを、歌人が一つの「風景」としてとらえることで、そこにあるものが関連づけられる。しかも、その「風景」として歌に詠まれたものは、それはその関連づけをやった主体、つまり歌人支配下に置かれる。前衛短歌のばあいは、その支配をする主体が複数になる。「複数支配」というのはつまり「デモクラシー」ですから、いかにも「戦後」っぽい。
 でも、佐藤さんの捉えかたによると、賢治の短歌では「見て、支配する」という方向性がない。そういうのがある作品もあるけれども、それが希薄な、または感じられない作品のほうがより「賢治らしい」ということでしょう。「一人称」を語る「自己」とか「自我」とかは、「風景」のようなもののなかに拡散して行ってしまう。そして、「前衛短歌」のように、「拡散」した先から「見て、支配する」というわけでもなくて、「見て支配されるはずの風景」のなかにあいまいになって薄れて行ってしまう。だれにも支配されず放置されている「風景」のなかに、「近代短歌」ならばそれを支配するはずの自己とか自我とかまでが紛れて、いっしょに放置されてしまっている。佐藤さんの表現は、短歌論の「文脈」のなかで書かれているので私にはよくわからないのですが、たぶんそういうことなんだろうと思います。
 賢治のばあい、後の詩でも、詩を作っている主体や、詩の登場人物が、「雲」や「台地」にまぎれて主体でなくなってしまう感覚というのが出てきます(たとえば『春と修羅 第二集』の「五輪峠」)。
 もう一つ、佐藤さんが「賢治短歌」と「近代短歌」の違いを見出す点が「物語性」という点です。
 「近代短歌」はそれ自体としては物語を語れない。短歌に「物語性」がないというわけではなくて、何かの「物語」のなかでこの歌が詠まれているな、と感じさせることはもちろん可能だし、むしろ普通です。でも、短歌一首だけで物語を作り出すことはなかなかできない。それは、文字数からして「物語の設定」とかから「物語」を説明することが非常に難しいからです。
 ではどうするかというと、中世の「連歌」と同じように、「連作」していけばいい(ちなみに、童話「鹿踊りのはじまり」には、鹿が方言を使って「連作短歌」を共同制作する、という場面があり、ここの方言短歌というのがまた魅力的です)。中世の「連歌」は複数人の共同制作だけれど、一人でいくつもの歌を詠み、それをつなげることで「自立した物語」を作ればよい。この方法は、「和歌の一ジャンルとしての短歌」の時代からあったわけですし、「近代短歌」にもある。
 それで、賢治もこの「連作」をやるわけです(後には詩でもやる)。ところが、佐藤さんは、賢治の短歌の「連作」は必ずしも成功していない、という評価のようです。けっきょく、短歌というのは一首ごとに自立しているし、一首ごとに「これは一人称の芸術だ」という主張が潜んでしまっている。それは、作者の意図ではなくて、「近代短歌」という形式に潜んでしまっているわけです。そうすると、「連作短歌」では、十分に物語性の翼を伸ばしていくことが、やっぱりできない。それ以前に、短歌のばあい、十首連作で310字、二十首連作で620字で、二十首作ってようやく即売会でときどき見かける「一ページ短篇集」の一篇分くらいの文字数にしかならない。「一ページ短篇」でも「小説の外部の物語」にあまり依存せずに物語が語れるかというと、それもけっこう難しいわけで、けっきょく連作にも大きな限界があるわけです。
 「鹿踊りのはじまり」の方言短歌の連作も、童話の物語が書かれていて、そのなかに埋めこまれています。方言短歌の連作だけで物語を語れているわけではない。
 この「一人称の文学」という形式の束縛、つまり「近代短歌は必然的に自分語りになってしまう」という性格と、賢治の「自分が風景のなかに拡散して溶けていってしまう」という方向性とは、最初から相容れなかったし、その差は大きくなって行く。また、物語を語りたいという欲求も強くなって行き、「連作短歌」の枠には収まらなくなって行く。そういうところで、賢治と短歌との「訣別」はやってくる。賢治はその後も「短歌も作れる作家」ではあり続けるけれども、その「文学表現」の中心を短歌に置くことはなくなった。それが佐藤通雅さんの描く「歌人宮沢賢治の生涯像ということになるのでしょう(なお、「絶筆」、つまり辞世の歌二首のことはここでは省略します)。
 今回で終わるつもりだったのですが、あと一回、続きます。