猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「銀河鉄道の夜」のりんご

 今朝がた(8月21日)、ツイッター上で入沢康夫さんから「問題」が提起されました。

 「銀河鉄道の夜」に、主人公ジョバンニとカムパネルラ、途中から列車に乗ってきた男の子(タダシ)と女の子(かほる)は「灯台看守」からりんご(苹果)をもらう。『旧約聖書』の「創世記」では、アダムがイヴからりんごをもらって食べた結果、楽園から追放される。このあいだに影響関係があると言えるだろうか?
 (*入沢さんの文章そのままではなく、私が手を加えています)
 (**なお清瀬ツイッターアカウントはhttps://twitter.com/felesater


 入沢康夫さんといえば、現在の宮沢賢治の文章の「決定稿」となっている「校本全集」・「新校本全集」の編集の中心になった方のお一人です。インターネットを介したソーシャルメディアがない時期には、このような方と、べつに専門家でもない私とが、じかに考えを交換する機会というのはまず考えられませんでした。もっとも、宮沢賢治学会(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)は、「専門家」と非「専門家」の垣根がない学会なので、賢治学会の大会に参加すれば、全集編集メンバーの方々とも意見の交換もできます。それはこの「学会」のすばらしいところですが、それにしても学会の時期に花巻まで行かなければいけない。
 この入沢さんのツイートに対して、私がレスポンス(@ツイート)を返したところ、入沢さんが「お気に入り」に登録してくださり、その議論にまた何人かの方が参加されました。私は午前9時前にツイッターから離脱してしまいましたが、その後も議論は続いたようです。
 そこでの私の議論をここでまとめ直してみたいと思います。
 私の最初の反応は:
 食べ物をもらう話は、世界じゅうのさまざまな神話・説話・神話に分布しており、ほかに何か証拠立てるものごとがないかぎり、『旧約聖書』から「銀河鉄道の夜」への影響があったと断定することはできないだろう。
というものでした。
 この時点では「りんご」という要素はまったく考えていませんでした。これは、聖書本文では、イヴ(エヴァ)が蛇にそそのかされてアダムに渡したのは「善悪の知識の木の実」(知恵の実)であって、りんごであるという意識がなかったからです。
 ちなみに、日本聖書協会のページで検索をかけると、「りんご」はいずれも旧約聖書の「箴言」・「雅歌」(4か所)・「ヨエル書」に出てきます。「え? あんな暑い国でりんご……?」というのが私の第一印象でした。でも、旧約聖書にもりんごは「甘美な果実」の象徴として登場していることがわかります。
 で、この場面で食べる実は「りんご」ではないことになっているので、私は「ちがうんじゃない?」と思ったのですが、西ヨーロッパではこれを「りんご」とするのが一般的なようです。
 ウィキペディア「禁断の果実」:
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%96%AD%E3%81%AE%E6%9E%9C%E5%AE%9F
 たしかに、ラテン語では「善と悪」の「悪」が malum (形容詞、中性)で「りんごの実」も malum (中性)でいっしょですね。変化形も同じです(第一・第二変化)。で、その「悪」と「りんご」が混同または深読みされて、もともとラテン語の聖書を使っていた地域では、この実は「りんご」であるという解釈が定着していたようです。
 なお、フランス語でじゃがいもを「大地のりんご」(ポム・ド・テール)というように、「りんご」は果実の代表で、具体的にりんごをさすとは限らないということもあるかも知れません。
 だから、もしここで銀河鉄道の乗客たちが食べる「りんご」に意味があるとすれば、それは、『旧約聖書』から直接の影響を考えるだけではなくて、もう少し広く、「人からものをもらって食べること」の意義、または、「りんご」が何を表現するかということについての文化的な「合意」(文化的なコンテキスト、「文脈」)をさぐってみる必要があるのでは、というのが私の考えでした。
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