猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「銀河鉄道の夜」のりんご(続き)

 りんごが登場する神話として私が思いつくのは「パリスの審判」のエピソードで:

 ヘラ(主神ゼウスの妃、ヘーラー、英語で言うジュノーにあたる)、アテナ(知恵の女神、アテーナー、ミネルヴァにあたる)、アフロディテ(美の女神、アプロディーテー、ヴィーナスにあたる)が招かれた婚礼に招かれなかった不和の女神エリスは、その婚礼の席に「最も美しい者へ」と書いたりんごを投げこんだ。そこでヘラとアテナとアフロディテとがそれぞれ「自分がいちばん美しい」とかいうことを言い出したために大混乱になり、この混乱が人間界にトロイア戦争という大戦争を巻き起こす。
 というか、結婚式なんだから花嫁にやれよ、それ。
 花嫁に渡しておけば、
「わあ嬉しい! わたしがいちばん美しいだって! エリスさん招かなかったけど、それでも祝福してくれたんだ」
とかいうことになって、そのいやがらせは無効になったのに。
 このとき結婚式を挙げていた花嫁がテティスという女神さまで、その息子がアキレウス、つまりアキレスで、このトロイア戦争で唯一の弱点である「アキレス腱」のところを攻撃されて戦死しています。また、エリスさんは、この活躍のおかげで、ずっと後に「人間界に論争を引き起こした」ということで「はじめて発見された冥王星より大きい惑星らしい天体」に名まえをつけられてしまうことになります。前に婚礼の仲間に招いてもらえなかったエリスさんは、今度は惑星の仲間に入れてもらえなかったわけです。ま、今回は、冥王星を道連れにしたし、マケマケとかハウメアとか仲間もいるので、一人だけのけ者ではないですが。
 どうやら「黄金の林檎」の神話はこれだけではなく、いろいろとあるようです。
 黄金の林檎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E6%9E%97%E6%AA%8E
 ここにも出てきますけれど、いわゆるアイルランドケルトの神話では、りんごは豚と並んで「豊饒・多産の象徴」です(「アイルランドケルト」という括りがいいかどうかという話はここでは省略します)。「豚とりんご」というのがなんかミスマッチのような。でも、賢治には「フランドン農学校の豚」という作品がありますし(いちおう岩手名産「白金豚」の名まえの由来です)、「巨豚」という詩もあります。りんごもここだけでなく出てくるので、関係はあるかも知れません。
 「賢治とケルト」というテーマはこれまでも意識されてきましたし、じっさい、賢治作品と「ケルト」の神話には「りんご」に限らずさまざまに興味深い類似点や並行関係があるのではないかと思います。「ケルト」には異界訪問物語や異界との交流物語が多く、異界訪問物語である「銀河鉄道の夜」自体、「ケルト神話的」と言うこともできるかも知れません。ただ、私がこれまで接した範囲では、賢治作品と「ケルト」の両方に本格的に詳しい人による議論にはまだめぐりあっていません。
 それより、賢治で「りんご」というと、『春と修羅』(第一集)に長い詩「青森挽歌」があり:
 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
 客車のまどはみんな水族館の窓になる
    (乾いたでんしんばしらの列が
     せはしく遷ってゐるらしい
     きしゃは銀河系の玲瓏レンズ
     巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
 りんごのなかをはしってゐる
 …(中略)…
 巻積雲のはらわたまで
 月のあかりはしみわたり
 それはあやしい螢光板になって
 いよいよあやしい苹果の匂を發散し
 なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
 青森だからといふのではなく
 大てい月がこんなやうな暁ちかく
 巻積雲にはいるとき……
とあります。この詩は、この少し前(前年の11月)になくなった賢治の最愛の妹とし子(トシ)を思い出しつつ作られた詩で、北へ走っているはずなのに南へ走る汽車(銀河鉄道はくちょう座北十字附近から南十字の先までの南行きです)、孔雀、そして「死者は停車場を通って行く」という発想など、「銀河鉄道の夜」と共通する要素を多く含んでいます。ここにこんな感じで「りんご」が出てくるのですね。
 なお、「銀河鉄道の夜」でも、「りんご」が出てくるのはこの場所が最初ではなく、祭りの晩の街で出会ってしまったいじめっ子ども(ここではカムパネルラはこの連中といっしょにいる)からからかわれて「天気輪の柱」の丘に駆け上ったところで、汽車の音をきき:
 その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。
と出てきます。
 遠くに汽車の音をきくという場面は童話「二十六夜」ほかの作品にもあります。私は、夜の花巻の北上川沿い、ちょうど「羅須地人協会」のあったあたり(現在保存されている場所ではない。現在の「賢治詩碑」のところ)を歩いていて、思いもかけず東北本線の列車の音を聞き、「あ、ほんとに聞こえるんだ!」と強い印象を受けたことがあります。賢治がこのあたりにいた当時は夜の騒音がもっと少なかったでしょうし、岩手軽便鉄道の線路も賢治の生家(羅須地人協会とは離れている)に近いところを通っていたので、もっとよく聞こえたことでしょう。また、列車に出会ってその窓の明るさに印象を受ける(たぶんさびしくなったり悲しくなったりしたのだろう)という作品はごく初期の短歌にあります。
 でも、ジョバンニが列車の窓を見るとどうして「もう何とも云へずかなしく」なるのか、というのも、線路を見下ろせる場所に一人で立って電車が走っていくのを見ていればなんとなくわかるといえばわかるんですが、でも、あらために「なぜなの?」ときくと……どうなんでしょう?
 それと「りんご」の結びつきは、いったい何なのか、ですね。
 これは、たとえば、当時の列車に乗るときに、りんごを持って乗るのがあたりまえだったか、それとも、実際にはそんなことをする人は少なかったのか、というところでも変わってくると思います。こういうのって調べた人はいるのかな?

 また長くなりましたので、次に続けたいと思います。