猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

鈴木由美『中先代の乱』について(3)

 この本の最大の特徴は、その中先代の乱を、建武の新政の時期から南北朝時代にかけて続く「北条与党」の反乱のなかに位置づけたということではないかと思います。
 「北条与党」というのは、北条氏の人びととその家臣(被官)をまとめたものです。現在の感覚だと「与党」というのは政権側なので、「与党の反乱」というのはあまり穏やかじゃないですけど。いや「北条与党の反乱」も穏やかじゃないですけどね。
 「与党」というのは「味方をする(与る)人びとの集まり(党)」なので、「わたし政権の味方です」という人たちの集まりが議会政治の与党、「わたし北条氏の味方です」という人たちの集まりが「北条与党」です。

 で。
 この中先代の乱以外にも北条与党の反乱はたくさん起こっていました。建武政権期(元弘3年~建武2年、1333~1335年)だけで、事件数は中先代の乱を含めて15件、ほかに、関連性不明のものが11件ということです。
 高校の日本史には出てこなかったけど、北条与党の反乱というのは建武政権期の一つのトレンドだったんですね。
 この本にはその北条与党の詳細な反乱リストが根拠資料をいちいち挙げて掲載されています。なんかこないだうちの職場で作った業務目標達成度報告書を思い出して苦笑い……。私はその作業には直接にはかかわってないけど、「こういうの作るのってたいへんなんだ」ということはわかりました。だから、このリストが作者の労作である、ということがとてもよくわかります。

 この北条与党の反乱に注目したのは著者が最初ではなく、佐藤進一『南北朝の動乱』ですでに検討がなされているということです。
 この佐藤進一『南北朝の動乱』というのはすごい本で、もちろん初出1965(昭和40)年という時代の制約はあるけれど、その後、建武政権史や南北朝時代史で議論される問題をいろいろ先取りしています。
 この北条与党の反乱についてもそう、ということです。
 で、その佐藤進一説の論点を著者の鈴木由美さんが再検討しています。
 大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめれば、反乱はそれまで北条氏が守護を務めていた国で多く発生していて、守護としての北条氏が築いた地盤に基づいて起こっている、それが、その地方の事情や中央での動きと連動しているばあいもある、というのが佐藤進一説です。
 著者による検討結果も大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめると、たしかに北条氏が守護を務めた国で反乱が起こっている例が多いが、「北条氏が守護を務めていた国」自体が圧倒的多数なので、関連性は明らかとは言えない。北条氏も内部でいくつもの「家」に分かれていて(本家=得宗家のほかに名越家、赤橋家、金沢家など)、守護を務めていた「家」とは別の「家」の北条氏の人物が反乱の主となっているばあいもある。またとくに地域との関係がなさそうなのに北条氏の人物が主になって反乱を起こしているばあいもある、というものです。
 北条氏に属する人物やその周辺の人物、つまり北条与党に北条政権復活への意志があり、地域に建武政権への不満があって、それが濃淡さまざまな割合で混じり合って、「北条氏の人物を担いだ反乱」として現れた。この点はたぶん佐藤進一説とそれほど違いはない。ただ、著者の説は、それが、守護として築いた地盤とは関係なく「北条一族を反乱の主にする」という動きとして起こっているばあいがある、ということです。地元とつながりがなくても、「北条一族の者」というだけで、反乱の主に担がれる理由になった、ということですね。
 「北条氏であること」にはそれだけの意味があったのです。

 ところで、日本史で鎌倉時代の歴史を学んでいて、ふと感じる疑問に「源頼朝に始まる源氏の幕府と、源氏将軍が断絶した後の北条氏の幕府は、同じものなのか?」というのがあるんじゃないか、と思ったり。
 もし北条氏が将軍になっていれば、「源氏幕府」と「北条幕府」は、同じ鎌倉に存在したとしても、もっとはっきり区別されていたでしょう。
 北条氏はけっきょく自分では将軍にならなかった。それは「北条氏の弱さ」なのか? つまり「北条氏はできれば将軍になりたかったけどなれなかった」のか? それとも、北条氏は北条氏であるというだけで十分で、「将軍になる必要なんかなかった」のか?
 これは私にはよくわからないところです。

 ただ、少なくとも関東の人たちや御家人に対しては、主要御家人の生き残り競争に勝ち抜いた後の北条氏は「将軍になる必要なんかなかった」のでしょう。
 北条一族であるというだけで幕府の権力を握れる。「握れる」というのですらなく、「握るのが当然として、だれも疑わない」ということになった。そのときから、幕府の最高指導者が、特別な一族である北条氏の本家の家長(得宗)であるという体制が決まった。だいたい、執権北条時頼の時代の後半から、ということになるでしょう。
 そして、蒙古襲来の後、その北条一族の権威と権力は、「関東・御家人」の枠を超えて、全国に拡がって行きます。全国の過半の「国」の守護は北条氏の一族が握り、海上交通なども北条氏が握った。まだ鎌倉幕府だけが「全国政権」という時代ではなく、朝廷・院や権門貴族(中央の有力貴族・有力寺社)も全国に影響力を持っている時代でしたが、その鎌倉幕府についていえば、「鎌倉幕府の最高指導者は北条氏!」という常識が全国に定着した。
 一方で、源氏将軍時代が終わった後の将軍は、藤原氏摂家(摂政・関白を出せる家柄。ここでは九条家)の摂家将軍九条頼経・頼嗣)、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王系の皇族将軍(宗尊親王惟康親王)、持明院統後深草天皇の子孫)の皇族将軍(久明親王守邦親王)と続きます。
 そこそこ「将軍らしい」動きを見せていた摂家将軍の時代から、宗尊親王系の将軍の時代になると、将軍が将軍として目立つ機会がなくなります。目立つのは将軍追放の局面ぐらい、みたいな程度になってしまう。そのあとの持明院統将軍になると、久明親王が北条氏と関係が良好だったことがうかがえるものの、「将軍として何をやっていたか」はわからなくなる。守邦親王はほとんど存在感がない。この本にも書いてあるとおり、後醍醐天皇が「倒せ」と指令している相手は、「地方役人(在庁)の北条高時」であって、幕府のトップのはずの守邦親王は無視されています(なお、本書で、著者は、宗尊親王系統を「持明院統将軍」に含めていますが、少なくとも血統的には宗尊親王大覚寺統持明院統分裂前の親王なので、著者があえて持明院統に含めるのはなぜなのか、私にはよくわかりません)。
 摂家将軍時代はともかく、宗尊親王が将軍になってからは、将軍は存在感がない。現実の政治権力を集中できる存在ではない。
 じつはこの点は過去には議論があって、1980年代、日本中世史をいっきょに人気のある学問に押し上げた網野善彦さんは、宗尊親王系の時代に、将軍を「公方」として(「公方」は将軍の通称として江戸時代末まで使われます)「徳政」の中心に位置づける運動があった、という議論を提起したことがあります(『蒙古襲来』)。ただ、もしそういう運動があったとしても、それを推進したのは北条氏本家(得宗家)の母方の血筋に連なる安達泰盛だった、ということなので、けっきょくは「北条氏の権威がなければ将軍を持ち上げることもできなかった」ということになります。また、現在では、この網野説をそのまま信じる専門家はほとんどいないと考えていいと思います。

 北条氏は、「北条氏である」というだけで将軍以上に権威ある特別な一族であって、けっして「将軍になろうとしてもなれない弱さ」を抱えていた一族ではない、と見たほうがいいのではないでしょうか?