猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

鈴木由美『中先代の乱』について(5)

 なぜ北条時行をはじめとする北条与党が南朝側を選んだか? それはこの時代をめぐる重要な問題につながっているのかも知れません。
 その問題とは。
 「建武政権を継承したのは、足利幕府体制なのか、南朝なのか?」という問題です。

 普通は南朝だと思いますよね?
 建武政権後醍醐天皇が非常に強い指導力を発揮して樹立した体制です。「一から十まで後醍醐天皇のオリジナルではない」という説が最近は強いですが、オリジナルのアイデアではないにしても、後醍醐天皇が強力に推進して実現したのは確かです。
 足利尊氏はその建武政権に反逆し、持明院統光厳上皇を担ぎ出して北朝を樹立した(光厳上皇の弟が光厳上皇の子の待遇で即位して光明天皇になり、光厳上皇院政。ちなみに弟に対しては通常は院政はできません。実際にはほかにも例はありますが)。後醍醐天皇はそれに反発して吉野へと脱出し、後醍醐天皇自身の朝廷を樹立(後醍醐天皇の立場からは再興)した。
 こう見ると、連続しているのは「建武政権南朝」であって、北朝・足利幕府はその「建武政権南朝」の否定の上に成り立っている、ということになります。
 戦前・戦中の「吉野朝正統」の歴史観ではもちろんそうなりますし、現在も、日本史の教科書もはじめ、そういう受け取り方が普通ではないかと思います。

 でも、些細な問題かもしれないけど、「建武」の元号を引き継いだのは足利体制のほうですし(後醍醐天皇南朝側は「延元」に改元)、その建武元号の下で作られた「建武式目」が足利幕府創立の重要な契機になっています。
 細かいことをいえば、後醍醐天皇が吉野に朝廷を立てて(再興して)引き継いだのは直接には「延元政権」である。建武政権‐延元政権(建武政権から足利勢力が離脱)‐南朝と、どこが連続して、どこが連続していないかは、考えるポイントかな、と思います。
 近年の研究では、初期の足利幕府は建武政権を、政策面・人脈面で引き継いでいる要素もあることが明らかにされています。だから「建武政権‐足利幕府」の流れもある。もちろん、足利幕府は京都に存在するので、設備も人材も建武政権のものをそのまま使えたのに対して、吉野に移ってしまった南朝にはそれが十分にできなかった、ということは考える必要はあると思いますが。
 足利幕府側は建武政権を全否定してはいない。「足利幕府は建武政権の後継政権だった」、少なくとも「南朝建武政権の後継政権だが、足利幕府も建武政権の後継政権だった」は言ってもいいのでは、と思っています。

 もし、足利幕府が建武政権の後継者だという感覚がこの時代にあったとすれば。
 そうすると、北条氏の側で、「建武政権はたしかにひどかった(だから中先代の乱で戦った)。しかし、そのひどい建武政権を引き継いだのは尊氏で、南朝も自分たちも尊氏に裏切られた被害者だ」という思いを本気で抱いたとしても当然、ということになります。
 私たちは、「建武政権が何をいちばん変えたか」というと、鎌倉幕府討滅、摂関政治院政の廃止、後醍醐天皇の親裁体制などを思い浮かべます。
 しかし、もしかすると、この時代には、「建武政権のやったことでいちばん大きいのは足利幕府体制をうち立てたことだ」という感覚が(感覚も)あり、それが北条一族にいちばんフィットしたのではないか。
 摂関政治院政を否定した、といっても、南朝は、その後、関白は置いているし、どういう事情かはわからないけれど、生前譲位もしています。後醍醐天皇の親政志向が強烈だったといっても、雑訴決断所のような合議機構も設置しています。親政志向に複数の合議機構の新設が重なり、ごちゃごちゃして批判されたわけですが、私はある程度は「制度の立ち上げの時期ってそういうもんだよね」と思っています。また、年少の、実質的に指導力のない皇子を、有力な臣下に補佐させるという形式で、地方支配機構として「陸奥将軍府」・「鎌倉将軍府」も設置しています。
 だから、時行や他の北条一族は、建武政権が落ち着いてきたら、鎌倉幕府は再建されて、その執権は北条一族のだれかに委ねられるという期待をしたかもしれません。
 ところが、実際に建武政権が再建した「鎌倉将軍府」では、執権の立場に足利直義が入った。それは許せないので攻撃して直義を追い出したら、尊氏が来て鎌倉を再征服した。そして、その勢いで、尊氏は征夷大将軍になってしまった。
 こうなると、鎌倉幕府が再建されたとしても、北条氏は執権になれないし、それどころか将軍が実権を握ってしまって「執権」の出番なんかなくなってしまう。それよりは、南朝のほうに鎌倉幕府再建の可能性を賭けた、という可能性もあります。

 私たちが建武政権の決定的な特徴と思っていることは、当時の北条一族には決定的とは思えなかった。当時の北条一族は、もしかすると、鎌倉幕府は滅亡したのではなく、一時中断しているだけ、と考えたかもしれません。現在の視点から見ればあり得ないことかもしれませんが、当時は、「後醍醐天皇またはその子孫の皇統の下でならば、「鎌倉幕府再興→執権として北条氏再興」の可能性がある!」と信じることができたのかも知れない。
 北条一族にとっては、それよりも、足利尊氏征夷大将軍就任と足利幕府の開創のほうが「不可逆な変化」に映った。北条氏が権力を握るとしたら、将軍は「君臨はするけれど統治はまったくしない」親王将軍でなければならない。足利氏が将軍になって権力を握ってしまえばそんなことはあり得ません。
 足利幕府体制が存在する以上、鎌倉幕府の復活はあり得ないし、北条氏の執権への復活もあり得ない。だから、そちらのほうこそ、全力で否定しなければならない。そして、その「不可逆な変化」を否定するという目標で、北条一族と南朝はごく自然に一致できる。
 それが北条一族の当時の感覚だったのではないか。そして、それは、もしかすると、北条一族だけではなく、この時代にはほかでも抱かれた感覚だったのかもしれない、という可能性を、私は考えています。