猫も歩けば...

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鈴木由美『中先代の乱』について(7)

 前回から間があいてしまいました。

 西園寺公宗陰謀事件と中先代の乱で、公宗と時行は連携していたのか?
 著者が示す連携説の根拠の第一の根拠は、中先代の乱をうけて公宗が(事実上)処刑されていることでした。これについては、私は、前回書いたように、「建武政権がその可能性を危惧した」ということは言えても、連携したとは必ずしも言えないのでは、と考えています。
 では、第二の根拠はというと、時行が「建武」の元号を使用せず、「正慶」という元号を使用していること、そして第三の根拠はほかの北条一族の反乱も同時期に起こっていることです。

 元号の問題はややこしいので後回しにして、ほかの北条一族の反乱について。
 前に書いたように、この建武政権期には15回の北条与党の反乱が起こり、それと関連するかも知れないものを含めると20回以上、平均してひと月に一回は反乱が起こっているわけですから、まあ、「西園寺公宗陰謀事件・中先代の乱と同時に反乱が起こっている」といっても「通常どおり」みたいなところはありますが。だから、何の連絡もなかったけど、「頻繁に起こっている反乱がたまたまその時期にぶつかった」という可能性はあります。
 著者が挙げているのは、中先代の乱とほぼ同時か、少し遅れて起こっている、北陸での名越時兼の反乱です。北条氏の名族名越氏の時兼が、加賀・越中能登(現在の石川県・富山県)の軍勢を率いて京都に向かおうとして敗死したという事件です。ほかに、京都で起こった北条高安という人物の決起未遂事件も関係があったと見ています。また、奥州の結城盛広の反乱は中先代の乱が波及したものですが、これももともと何かの連絡があったのかも知れません(著者はそこまでは言っていません)。

 それをつなぎ合わせてみると。
 越後、奥州(現在の奥州市ではない)、信濃、京都で反建武政権一斉決起を起こし、一挙に建武政権を転覆しようという全国規模(少なくとも京都以東で足並みを揃えた)の軍事クーデター・軍事反乱計画が存在したのではないか、ということになります。
 西園寺公宗の陰謀というのはその中核部分で、それと連動して、信濃と越後で反乱を起こし、京都と鎌倉を同時に制圧する。そういう壮大な計画があったのではないか。

 でも、そういう壮大な計画はなかなか成功しないもので。
 後の「正平の一統」の際に、南朝が勢いに乗って足利方(尊氏と義詮)を京都と鎌倉から追い出そうとしたときも、両方で失敗しています。

 もし「一斉決起」計画があったとすると。
 この時代に、どうしてこういう壮大な計画が行われたかというと、それは、鎌倉と京都の同時攻勢による、鎌倉幕府六波羅探題の同時討滅という事件を見てしまったことの影響が大きいんじゃないかと思います(これについては、岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)での、正平の一統についての叙述を参考にしました)。
 このときも、足利‐新田一族でその壮挙が可能だったのだから、それを上回る名族の北条氏が出て行けば、ということを考えたのかも知れません。
 もちろん、それぞれが別々に反乱のプランを立てていたら、たまたま連動してしまった、という可能性もやっぱりあるので、史料的な制約を考えると、なんともいえないところです。

 そこで、元号の件なんですけど。
 公宗のバックには、建武政権からの復権を狙う光厳上皇がいた。そして、光厳上皇が、まだ少年の時行に「時行」の名を授けて元服させ(成人儀礼を行わせ)、北条家本家の当主であることを保証した。
 西園寺公宗と後伏見法皇光厳上皇のつながりがあったのは確実です。それに歩調を合わせるように、時行も、「正慶」という元号を使用している。
 元号というのは「天皇が時間を支配している」ということを具体化した制度です。
 だから、後醍醐天皇持明院統で、「だれが正しく在位している天皇か」で対立している状況では、両方で使う元号、使いたい元号は違うわけです。

 1330年頃から建武政権崩壊までのあいだ:
 後醍醐天皇が定めた元号:元弘、建武、延元
 光厳天皇が定めた元号:正慶
です。「建武」は、後醍醐天皇が一方的に定めた元号なので、光厳天皇としてはできれば使いたくない。
 一方で、後醍醐天皇は、光厳天皇の在位を認めていないので、「正慶」元号は存在しないことにしており、自分が定めた「元弘」から、自分が改元した「建武」へと続くという認識です。

 そして、北条時行は、中先代の乱当時、建武政権の「建武」はなかったことにして、「正慶」の元号を使っています。
 つまり、「持明院統天皇光厳上皇)が本来あるべきだと思っている元号」を使っているのです。
 西園寺公宗持明院統と提携していたのは確実です。そして時行も正慶の元号を使用しているということは、持明院統との強固な連携があった。

 そうである以上:
 「持明院統の代表者=光厳上皇が、西園寺公宗北条時行(と名越時兼と結城盛広?)を組織して、一挙に反建武政権軍事クーデターを企てていた」
という推定が成り立つ。
 それがこの本の主張です。そして、公宗が(事実上)処刑されたことと、同時に他の北条与党の反乱が起こったことに加えて、この根拠もあるならば、この「全国的陰謀」説も認めていいのではないかと思いますが。
 でも、いろいろとびっくりするような話です。