猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

アントニオ・ネグリ マイケル・ハート/幾島幸子 訳、水島一憲・市田良彦 監修『マルチチュード』(上、下)(日本放送出版協会、NHKブックス)

 さて、廃線跡めぐりは夕方で切り上げるので、宿に帰ってから読もうと思って持って行ったのがネグリとハートの『〈帝国〉』と『マルチチュード』(上 isbn:4140910410 、下 isbn:4140910429)だった。けっきょく読めたのは『マルチチュード』だけで、しかも帰宅してからようやく読み終えた。まあそんなもんでしょう。でも、翻訳ものとしては、訳文は非常にわかりやすく、わりとすんなり読めた。ちなみに日立には飯山幸伸『ソビエト航空戦』(光人社NF文庫)も持って行ったけれど、この本についてはまたいずれ。
 さて、マルチチュードである。「マルチチュード」の訳語としては、「多衆」とか、本文で common (共通性、庶民)を「〈共〉」と訳していることに対応させて「〈多〉」とか、愚直に「多様な多数の人びと」か、いろいろ考えるけど、その common に対応する「庶民」ということばの「庶」が「多い」を意味するので、もう一つ、「大衆」とか「民衆」とか、政治用語で「多くの人びと」の意味で使われる「衆」を重ねて「衆庶」という訳語はどうだろうか。まあ何でもいいのだけど、日本語で適切な訳語を作らないと、日本の人たちにはいつまで経ってもなじみのない「外来の概念」のままになってしまう可能性が大きいと思うよ。ここは dwarf planet を「矮惑星」と訳するような日本語での表現が欲しいところだ。
 冥王星事件で強く感じたのは、天文学者が「冥王星を惑星からはずしたことがはたして一般社会に受け入れられるだろうか?」ということを非常に強く意識しているということだ。決定自体には私はいまも納得していないけれど、その決定の意味を専門家以外にも理解してもらおうという学界の姿勢は印象深い。おかげで、天文学や天体観測に関心のあるひと以外にはなじみがなかったであろう天体「2003UB313」の名も、少しは一般に知られるようになったのではないだろうか。その天文学者たちにくらべて、「〈帝国〉」や「マルチチュード」を論じている人たちは、少なくとも日本では「この概念が専門家以外の社会に受け入れられるだろうか?」という関心をあんまり持っていないような気がするのだ。思い過ごし?
 さて、この本を読むまでは、ネグリとハートのマルチチュード論はロマンチックな変革論だと思っていた。著者たちが指摘する「〈帝国〉」の出現に対抗する勢力として著者たちが期待をこめて作り上げた幻の存在ではないかと。この本は、たぶん、前著『〈帝国〉』での「マルチチュード」像に対するそういう批判を受けて、変革の主体としての「マルチチュード」が現実の存在であること、現実の存在であり得ることを説得するために書かれたもののようだ。そのために、本文には、シアトルでのWTO閣僚会議に対抗して行われた抗議運動や、メキシコのサパティスタ人民解放軍運動(この運動については恥ずかしながら私はこの本ではじめて知った)をはじめ、「〈帝国〉」的な動きに対抗する運動の実例を豊富に引用している。ただし、そういう運動がすでに現にマルチチュードの変革運動だと言っているのではない。やがて現れるマルチチュードの変革運動のさきがけとして、ネットワーク上の運動やデモから武装闘争まで、まさに多様な多数の運動を引用し、紹介しているのだ。
 つまり、著者たちは、「マルチチュード」というのは、昔からずっと存在はしているけれど、変革の主体としてはまだ十分にその姿を現していないと考えている。そして、マルチチュードが変革の主体になりうること、その動きがすでに現れ始めていることを論じ、それが本格的に変革の主体として登場するのを促進するために、著者たちはこの本を書いた。
 ネグリとハートは、たぶん、この本の文章で言及している以上に、マルクスの『共産党宣言』を意識している。マルクスは、工場労働者階級が存在し、それが変革の主体になるという確信を持っていた。しかし、1848年当時のヨーロッパの革命運動のなかでは、工場労働者階級はまだ脇役にすぎなかった。ばあいによっては革命運動を混乱させるだけの「おじゃま虫」として煙たがられ、警戒されていた。また、マルクスが現実に見る多くの工場労働者の姿も、けっして理想的なものではなく、反革命側からカネをもらって平気で革命を裏切る「革命の敵」的なものだった。そういう状況に対して、それでも工場労働者は変革の主体になり得るし、工場労働者を主体とした変革でなければ現在の社会が抱える問題は根本的には解決できないのだということを主張したのが『共産党宣言』だ――と、たぶんネグリとハートは考えているのだろう。そして、ネグリとハートはその『共産党宣言』をなぞって議論を展開する。マルクスが資本家階級(ブルジョワジー)と工場労働者階級(プロレタリアート)の対決が最後の階級闘争になると考えたのと同じように、「〈帝国〉」に対する「マルチチュード」の闘争が最後の闘争になり、しかもそれは原理的に「マルチチュード」が最後には勝利するのだというわけだ。現在の「〈帝国〉」が起こしている病理としての「戦争」(第一部)、それへの対抗勢力としての「マルチチュード」(第二部)、その闘争の結果として生み出される「民主主義」(第三部)という本の構成も「弁証法」的である(しかも、ヘーゲルの本と同じように、それぞれの「部」はさらに3章で構成されている。ただし章の下の「節」の数は一定しない)。
 ただし、『共産党宣言』が「万国の無産者よ団結せよ」で終わっているような具体的な呼びかけは『マルチチュード』にはない。具体的に何をするかは、まさに「マルチチュード」自身が決めることであるというのがこの本の立場だ。
 そして、たぶん、ネグリとハートは、マルクスがロマンチックだったのと同じようにロマンチックだし、『マルチチュード』も『共産党宣言』と同じようにロマンチックな書物なのだろうと思う。で、たぶん、マルクスや『共産党宣言』がロマンチックでないぶんだけ、この本もロマンチックではないのだろう。そういう理解は著者たちにとってはたぶん不本意だろうと思うけれど。
 ところで、著者たちによると、近年、吸血鬼モノがはやるのは、変革主体としての「マルチチュード」の登場が近いことの兆しなのだそうだ(そこまで短絡的な書きかたはしていないけれど)。ということは、ネコミミモードもその兆しの一つに違いない。「〈帝国〉」に対して変革を挑む者はネコミミをつけよう!――とけっきょくそういう話に行くのだった。
 でも、考えてみれば、コミケの参加者というのは、コミケに参加するという点で統一性を持ちながら、内部の多様性をけっして失わないという点で、「マルチチュード」の典型かも知れないな、と思いついてみたり。