猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

下野国薬師寺

 今日のニュースで、下野国薬師寺というのが、飛鳥時代の創建で、しかも飛鳥の飛鳥寺と同じ伽藍配置だったというのをやっていた。
 この下野薬師寺というのは、8世紀の称徳天皇孝謙上皇復位)の時代に天皇の地位をうかがったというので道鏡が中央から飛ばされ、そこで亡くなったという寺だよなぁ。道鏡はいちどは天皇と並ぶ権勢を手にしながら、欲を出しすぎたためになんか地方の閑職に追いやられて、失意のうちに亡くなったという感じだったけれど、下野薬師寺がそういう名門寺院だったとすると、必ずしも単純に閑職に飛ばされたとも言えないような気もする。飛鳥寺というと、7世紀前半、隆盛を誇っていた蘇我氏が建立した寺院だ。それと同じ伽藍配置――しかも塔に金堂が三つというけっこうぜいたくな伽藍配置となると、下野薬師寺の建立はけっこうな大プロジェクトだったということができる。道鏡にとって左遷であるのは否定できないにしても、もうどうしようもないような落ちぶれかたでもなかったのかも知れない。奈良の東大寺に次ぐ「奈良朝廷が東国に築く鎮護国家寺院プロジェクト」で、そこに先帝の覚えがめでたかった重要人物を送りこんだという感覚があった可能性もなくはないと思う。
 この道鏡事件には「地方」の影がちらついている。道鏡に即位を促す「神託」は宇佐八幡宮からもたらされたし、この「野望」阻止に活躍した和気清麻呂吉備国の地方豪族出身の貴族だ。そして道鏡は関東の下野に飛ばされている。道鏡事件の約20年後には蝦夷「討伐」が本格的に開始される。聖武朝からうち続いた藤原広嗣反乱事件(九州)、恵美押勝藤原仲麻呂)反乱事件(現在の湖西線北陸線方面)なども含めて、日本の8世紀後半の政治の不安定さの背後には、当時の「中央‐地方」関係の変化があるのかも知れない。墾田(→荘園)の地位の確立と班田制の崩壊という流れも、それと連動させて考えてみなければいけないのかも知れないと思う。
 そういえば奈良のお水取り(修二会)が終わったんだなぁ。奈良には「お水取りが終わると春」ということわざがあるらしいけど、関東以西に関してはなんかほんとにそうなったよね。