猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

コミュニタリアンについてふと思いついたこと

 洗濯をしていてふと思いついたことがある。といっても洗濯とは関係がない。
 コミュニタリアニズムは、人間は自分の属する共同体の習慣や伝統や決まりごとにしたがって生きるのが最もよい生きかたであると想定する……と言っていいんだろうな? まあここではそういうことにしておこう。
 しかし、そのような共同体の習慣・伝統・決まりごとというのに従うのは、個人にとっては息苦しい。苦痛に感じることもある。そのような息苦しさを忍んででも、共同体的な習慣・伝統・決まりごとに従うのが結局はいちばんよいのだと納得するには、ある程度の成熟と諦観が必要だ。だから、共同体には、その共同体の習慣・伝統・決まりごとに反発する気もちを持った人たちが必ず一定数はいるものだと思う。同好会とかファンクラブとかはてなダイアリーとか、その共同体がどういう共同体かを理解している人たちが加入する共同体ではそういう反発力は少ないだろう(気に入らない人は最初から加入しないのだから)。しかし、ムラ共同体のような、いろんな人間が、生まれつき、またはさまざまな事情でしようがなしにそこに属してしまうような共同体では、その反発力は大きいと考えていい。
 だから、共同体というのは、習慣・伝統・決まりごとを守らせるという力と、それに対する反発との均衡の上に成り立っている。共同体というのは、その二つの力のせめぎ合いで、漸進的に変化していくものだろう。
 とくに、近代社会での共同体は、外部にそのような習慣・伝統・決まりごとから「自由」な社会が存在する。気に入らなければその「自由」な社会に脱出すればいい。それに対して、共同体の側も、脱出してしまうかも知れない者を引き留めるために、習慣・伝統・決まりごとの見直しを絶えず求められる。また、「自由」な社会を経験して戻ってきた者が、共同体の習慣や伝統や決まりごとを「時代遅れだ」とか「これは意味がない」とか言って変えてしまうこともある。それだけ、共同体の変化は急速になっていると考えるのがいいと思う。
 で、ふと思ったことというのは、共同体で、習慣とか伝統とか決まりごとを守らせる力のほうが衰弱したときにどうなるかということだ。その共同体の構成者のなかには習慣・伝統・決まりごとへの反発がある。その反発が共同体の力で抑制されないまま社会に出てしまうとどうなるか? 共同体の人びとが熱狂的にリバタリアニズムを支持してしまうというかたちでその力は社会に出現してしまうのではないか。
 ――と、まぁ、そんなことだ。
 なんでこんなことを考えたかというと、「保守主義」って何かな、ということを漠然と考えていたからで。
 「保守主義」と言ったばあい、その社会の(日本社会ならば日本の)伝統を守るというコミュニタリアンな傾向と、レーガノミックスとかサッチャリズムとか小泉改革とかのリバタリアンな傾向の両方が同居している。その「同居」をどう説明するかだ。たぶん、歴史的には、1970年代後半ぐらいの時点で、それまで伝統的共同体を擁護する保守主義を主張していた保守勢力が、社会主義や「大きな政府」主義に対抗するためにリバタリアン的な改革論を持ちこんで、それ以降、同居しているということになるのだろう。また、リバタリアン的な改革を主張する「反動」や「ガス抜き」としてコミュニタリアンな伝統主義が主張されるのだ(たぶん「フェイク」つまり「作り物」として)という解釈もあるだろうと思う。
 でも、私は、保守主義リバタリアン的な面とコミュニタリアン的な面をもっと統一的に考えることができないかな、などと考えている。それでいまのような解釈を思いついたわけだ。もうちょっと考えを進めてみないと、妥当かどうかは私自身にもわからない。いまの時点では自分でも「穴が大きいよなぁ」とは感じている。でも、相反するものが出現すると「反動」とかで説明してしまうよりはいいんじゃないかな、と私は思っているのだけど。また、社会主義に対抗するためのリバタリアンコミュニタリアンの同居なのだったら、社会主義が衰退したらその同居は分かれてしまうはずだしね。