猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「回顧的押井守論」の補足など(第一回)

 今回も、本文に書いたとおり、締め切りを大幅に過ぎてからの寄稿となってしまった。そのため全体を読み直して手を入れている余裕がなかった。最低限のつじつま合わせはしたが、それも最後に近づくにしたがって雑になっている。読みにくく、論旨の掴みにくい文章になってしまったと思う。

 この文章は、もともとは、押井守が世評に敏感な監督であり、「世間」での自分の位置づけを作品づくりに戦略的に利用していく映像作者であることを論じようとして書き始めたものだ。「映画は国境を越えない」という発言をしておきながら、どうして自分の映画の国際展開の企画に乗り、果ては自ら外国の映画祭にまで行ってしまうのか、また、劇場版『機動警察パトレイバー』(第一作)で超高層ビルの林立する東京にあれだけの違和感と憎悪を描いておきながら、どうして自ら六本木ヒルズの宣伝に積極的に加わったりするのか。それが機会主義でなければ何なのかということを考えてみたかったのだ。

 押井守は、最近、しきりに日本人の「機会主義」(日和見主義)的な民族性を非難する。
 日本人がほんとうに「機会主義」的な民族性を持っているかどうかは私には何とも言えない。だいたい「機会主義」とか「日和見主義」なんてことばが、左翼全盛時代に自陣営内部の「敵」を非難するために盛んに使われたことばで、私にはいまさらそんなことばを非難のことばに使うという感じかた自体になじみが持てない。
 けれども、それほど「機会主義」の嫌いな人が、どうして自分の発言や作品の中に見られる思想と違うことを平気でやるのだろう――ということを考えてみたかったわけだ。

 それで、押井守にとって重要なのは結局は映像を撮るということであり、そのために利用できるものは何でも利用する、「手段は選ばない」、いや「手段を選んでいる余裕などない」という考えを持っている映画監督なのだろう、というような結論に落ち着けるつもりだった。そして、「手段を選ばない」のは、「機会主義」だからというより、それほど「映像」というものに対する忠誠心が強いからだろうという議論に持って行こうと思った。

 押井守は、たぶん、自分の知っていた「海辺の町」東京が、高層ビル群の林立する東京に変化して行くことにいまでも違和感を持っているだろう。べつにインタビューしてみたわけではないけれど、劇場版『パトレイバー』第一作の内容に加えて、東京を出て熱海に引っ越したことも考えると、たぶんそうなのだろうと思う。「犬が住みにくい都市」、「犬に優しくない都市」では、押井守はたぶん暮らしたくないのだ。そして、いまの東京が犬の住みやすい都市だとは私にはとても思えない。
 しかし、その違和感を主張することと、高層ビルの宣伝とタイアップしてでも映像作品を一本完成させることとのどちらかを選べといわれれば、押井守は映像作品を完成させるほうを選ぶ。
 押井にとって、映像とは、自分の政治的・文化的な主張を表現する媒体などではない。自分の思想とか主張とか好き嫌いとかよりも映像のほうがずっと優先順位が高い。だから、映像を完成させるためならば、自分の思想は脇に押しのけ、封印してしまう。押井守はそういう映像作者なのだろう。

 なぜかそうなのか。
 どうして映像に対して「自分の思想や好き嫌いなどどうでもいい」という強い忠誠心を持てるのか。
 その問いに答えるとなると、もう想像するしかない。

 おそらく、映像で何が可能かが人間にまだほとんどわかっていない、映像で可能なことはもっともっとあるはずなのに、人間はそのほんの一部しか手にしていない、そう信じているから――というのが私の回答である。
 なぜそう断定するかというと、押井が、『うる星やつら2』・『天使のたまご』以来、作品を作るたびに「新しい映像表現」を試みているからである。例外はないわけではないけれど、『うる星やつら2』以後、押井守は「前の作品と同じ映像表現で満足する」という保守的な映像づくりの姿勢はほとんど見せていない。
 その映像の可能性を自分の手で試す機会があるのに、自分の政治的・文化的な意見を通してその機会を逃すなどということはできない、それは「映像に対する裏切り行為である」と認識する。それほど映像そのものへの忠誠心の強い映像作者、映像に対して「犬」的心理を抱いた映像作者なのではないか。そういうようなことを私は考えていた。

 そして、それを論じたうえで、その押井守がどうして軍事と戦争にこだわるかについても考えてみたかった。
 もっとも、こちらのほうはいまもあまり考えが熟していない。実際に『WWF No.37』に書いた程度にしかまだ考えが行っていない。押井が自分で『勝つために戦え!』で書いているように、正義は戦いに勝つことによってしか実現できないから、という答えぐらいしか思い浮かばない。

 では、なぜそうまでして「正義」を実現することが重要なのか?
 生い立ちの何かが影響しているのだろうけれど、それが何かまではわからないし、興味もない。「学生運動」が盛んだった時代の東京の、そのころ10〜20歳代だった青年たちの思想や行動様式の影響はたぶんあるのだろうというぐらいしかわからない。
 ともかく、現在の押井守にとっての「正義」とは「すべてをさしおいて映像に忠誠を尽くすこと」である。
 この「正義」感には、映画『うる星やつら2』から『機動警察パトレイバー』(OVA第一期)までの「大失業時代」を経験したことの影響はあるに違いないと思う。
 この押井守の「失業監督」時代には、私はアニメには何の興味もなかったので、自分の経験とか実感とかからは何も言えない。ただ、この時代、押井守はすでに有名監督であったらしい。アニメにとくに興味を持っているとは思えなかった当時の友人が、この時期、「押井守というすごい監督がいる」と私に得意げに語ってくれたこともある。また、『紅い眼鏡』のコメンタリーによれば、『迷宮物件』の公開時には「鬼才」という表現もされたらしい。
 その世間的な名声と、しかし、実際にはほとんど仕事が来ず、持ちこんだ企画のすべてが却下されるという実態の落差を、押井守はここで実感したことだろうと思う。世間的な名声があるのならば、それを映像作品づくりに利用しなければ意味がないとこのときに実感したのかも知れない。
 その姿勢が「実利主義」というのとは違うとすれば、それは何なのか? そこで「召命意識」というアイデアが徐々に出てきた。そして、けっきょくその「召命意識」を軸にした押井守作品論を書くことになってしまった。
 「召命」が自分の書いている文章のキーワードかも知れないと気づいたのはかなり書き進んでからだった。最初はそんなことを考えてもいなかった。そのため議論が錯綜して混乱している部分がある。気がついた部分は寄稿前に繕ったけれど、繕い切れていない部分もある。だから全体としてみれば練れていない議論になっている。
 反省はするけれど、では次回はこういう練れない議論はしないかというと、そう言い切る自信はない。

 もう一つ、この文章で考えてみたかったのは、押井作品が、1984年から2000年代に向かって質的に変化したかどうかということだった。
 私だって変化していないとは思っていない。しかし、東浩紀さんが『イノセンス』を観て「何をどう論じていいのかわからない」と書き、安彦良和さんがやはり『イノセンス』を「社会や民衆が描けていない」と非難しているのに接して、私は驚いた。映画『うる星やつら2』がつまらない作品だと言う人たちが『イノセンス』を非難するのならばわかる。しかし、『うる星やつら2』を評価した人たちが『イノセンス』を非難するというのが、私にはよくわからなかった。
 いや、わからなくはない。『イノセンス』を批判したくなる「雰囲気」に共感しないではない。
 でも、そんなに、手のひらを返したように強く非難したり当惑したりしなければならないほどの変化があるのだろうか――ということも私は同時に感じた。『紅の豚』から『もののけ姫』への宮崎駿作品の変容と較べれば、押井守作品の変容など、連続的で、ごく地味なものなのに、と私は思う。
 けれども、そう感じるのは、私が『うる星やつら2』を公開当時に観ておらず、したがってその内容の斬新さに1984年の段階で心を打たれることもなかったからかも知れない。私が最初に意識して観た押井守作品は劇場版『パトレイバー』第一作だった。そして、そのときにはすでに『うる星やつら2』が傑作であるという評価も知っていたし、あらすじも知っていた。『うる星やつら2』はいい作品だと思うし、一時期、毎晩、眠る前に『うる星やつら2』の(当時のことだから)LDを観るのを日課にしていたことがあるくらいだ。でも、いきなりこの作品を観て衝撃を受けるということを私は経験していない。
 その1984年から1989年までの変化を同時代に知っていれば、私自身の感じかたも違ったのかも知れない。そういうことは思ったので、最初に私の押井作品鑑賞歴を書いておいたのだ。