猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

自然状態

 ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に取りかかったのだが、現在まだ最初の数ページしか読んでいない。
 その最初の部分が「自然状態」の話から始まっている。1970年代になって、社会契約論の基礎的発想をたどり直しているのというのが印象的だ。もっとも、昨日の日記で採り上げた藤原保信さんの『自由主義の再検討』によると、ノージックの仲間でもあり論敵でもあるロールズも同じような発想から議論を組み立てているというから、これはノージックに限ったことでもないようだ。1970年代というと、ソ連的なマルクス主義も、福祉国家的な自由民主主義も、いちおう成熟してしまったというか、ようするに行き詰まりを見せ始めていたころで、そういう時期にはやっぱり「自然状態」から議論を組み立てるという試みがすなおに出てくるようだ。
 ホッブズが「自然状態」論から政治論を組み立てたのも、カトリック的な世界観が行き詰まりを見せた時期だった。ホッブズは、よく知られている「万人の万人に対する闘争」というところから話を始めるのではなくて、それ以前に人間の体の仕組みから話を起こしている(私はそこを読んでいて挫折した)。そこまで遡って政治論を組み直そうというのがホッブズの試みだった。そういえば、カトリックの世界観とその行き詰まりというのは、しばらくまえに「天文」の項目でしつこく問題にしていた天動説‐地動説の話とも重なる。神を中心として組み立てていた議論を「自然」中心に組み立て直すというのは並行する現象なのかな。
 「自然状態」というとき、それを「はるか過去には存在したけれども、いまはもう存在しないもの」と捉えるか、「いまでも根底には存在しているもの」と捉えるかで、議論の進めかたが変わってくるように思う。いや、考えかたが両者でぜんぜん違うように思う。自然状態が「みんなが楽しく仲よく暮らしていて、政治には何もすることがない」*1という牧歌的世界とされるとしても、また、陰惨な万人の万人に対する闘争とされるとしても、「いまはもう存在しないもの」と想定されるときには、それは現在の私たちには何の影響も及ぼさない。「とおいむかしの記憶」でいいのだ。しかし、「自然状態」がいまも私たちの世界に潜在的に存在しつづけているのであれば、いまの政治状態が不安定になって機能を失ったらその「自然状態」がすぐにでも復活してくることになる。で、いまの世界――たとえばアフガニスタンとかイラクとかを見ていると、「自然状態」は私たちの世界の下にいまも生きて潜在していると考えたほうが妥当なように感じる。
 物理学でも、たとえば「電磁相互作用‐弱い相互作用」が分離する前の宇宙は、なくなってしまったわけではなくて、当時のエネルギー状態を再現すればいまでも復活しうるという考えをするわけで、自然状態から国家のある状態への移行もそういう「相転移」の一種なのではないかと思う。
 ノージックは「なぜ自然状態から考えるか、どういう自然状態から考えるか」を最初に話題にしているようなので、それも読みつつ、この問題についてはしばらく考えつづけたいと思う。
 ところで、『自由主義の再検討』を読んでいて、マルクス主義では資本主義下の人間のあり方を「人狼」的と表現することを知った。映画の『人狼』の「狼」イメージとはぜんぜん違うのだけど(資本主義下の人間の欲望の意味での「人狼」はたんに「あさましい」というぐらいの意味)、「人狼」ということばにはそういう思想用語的語感があったんだな。

*1:中国の神話時代の帝王(ぎょう)の治世がそういう時代だとされている。これは中国の政治思想の「自然状態」ということがいえるだろう。ただ、中国のばあい、その世界にすでにじつは帝王がいて、民衆がその帝王の存在を感知していないとされるところが、西ヨーロッパの社会契約論と違うところである。