猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

生権力

 前に書いてから『自由を考える』を読み直して、たしかにここに出てくるような意味の「生権力」は近代のものなのかなと思い直したりもしている。前近代の権力が「生権力」であったかなかったかというのは、この本の趣旨には何も関係がないけど……。
 でも、伝統的な権力の本質は「殺すことのできる権力」だというのにはやっぱりちょっと納得できない。儒教など、人びとをよりよく生かすのが支配者の役割という考えがあるわけだから。儒教のことを思いついたのは、この本で、近代的権力の特徴の一つとして、人間を家畜のように管理する、理性とか「大きな物語」とかを経由しないで直接に身体の快・不快に働きかけることで人間を管理するというのを読んだときだった。儒教はまさに支配者(具体的には地方官僚)に人民を家畜のように支配することを求めていて、そういう地方官を「牧民官」と呼んだりしている。もちろん、儒教のばあい、「教化」というのが一つのポイントになるから、やっぱり東浩紀さんのいう「環境管理型権力」とは違うわけだ。儒教のばあいは身体のしぐさとか音楽とかを利用して支配される人間の感じかたを変えてしまうんだから……ってそれって「環境管理型」? 何かよくわからない……。
 けれども、もしかすると「仁政の名を借りた専制」という儒教的な考えかたへの批判が、現在の「環境管理型権力」への批判に何か役立つかもしれないな、とか思ったりもするんだけど、混乱してきたのでこのへんで止めておこう。東洋思想というのもやはり考えてみたほうがいいよね、などといま思っている。