猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「よく生きる」ことを強制する権力

 「ソクラテスの弁明」を読んだのはずっと昔で、もう何が書いてあったか確かではない。ともかく、「ソクラテスの弁明」か「クリトン」かには、「ただ生きる」のではなく「よく生きる」ことが人間にとって重要だというような話が出てきたのだったと思う。これを読んで、「ただ生きる」だけでも難しかった時代に、「よく生きる」っていうのはすごく難しいことだったんだろうなという印象を持った。これはたぶんそのとおりで、この「ソクラテスの弁明」の少し前の時代には、戦時下で都市封鎖中という特殊条件下ではあったけど、疫病でアテナイの人口が激減したというような事件があったはずだ。「ただ生きる」だけでもたいへんだった時代なんだと思う。
 でも、「生権力」っていうのは、「よく生きる」ことを強制する権力で、かえって「よく生きなくていいからただ生きる」という生きかたを困難にする権力なのではないかと感じる。「よく」かどうかはわからないけど、「生権力」が「環境管理型権力」として現れたときに、権力が導く方向に合わせて生きないとすごく生きにくいという状況が生まれる。その方向に合わせることで共同体的調和が保たれるとしたら、それがコミュニタリアン的な意味では「よい生きかた」になるだろう(もっとも、コミュニタリアン的な討論を経て形成された合意があれば、だけど……まあけっきょくそこが難しいわけだな)。
 環境管理型の生権力の支配する状況下では、「ただ生きる」という段階を跳びこしていきなり「よく生きる」ことを権力によって強制される。いや、権力の導く方向に無意識に身を委ねてしまえば、ひとりでに、何の無理もしないで「よく生きる」ことができてしまうのだ。もちろん、権力を操作する者が全知全能でない以上、すべてについて「よく生きる」ことができるような権力などありえない。たぶんそんな権力が支配する場所があるとしてもそれはユートピア=どこにもない場所だろう。だが、どのような環境管理型権力も、達成度は5パーセントか10パーセントかも知れないけど、ある程度は「ただ生きる」を無効化して「よく生きる」を無理なく実現してやるという方向性を持っている。そう考えていいのではないか?
 で、リバタリアニズムというのは、政治(=国家)権力に対して「よく生きさせてくれることは拒否する、ただ生きさせてくれ」と要求する考えかただということになる。だから、「よく生きる」ことを強制する環境管理型権力に対しては、リバタリアニズムは抵抗の論理になりうる。
 まあ考えてみればあたりまえなわけで、類型化されたスターリズムみたいな、公定「よく生きる」を強制することをたてまえとし、じつは「権力に従うことこそよく生きることの唯一の基準」みたいなことをやるのに対する抵抗の原理がリバタリアニズムだったわけだ。ただ、スターリニズムみたいに露骨に「権力だ! 何か文句あるか!」という顔をしている権力に対してだけでなく、権力の存在すら感知させないような権力に対してもリバタリアニズムが抵抗原理になるというのは、いままで思いつかなかった点だ。
 私は、「リバタリアニズム→自由市場至上主義」にはいまだに強い抵抗感を感じている。でも、リバタリアニズムを「ブッシュの思想的手先」みたいに否定してしまうわけにもいかないな〜と最近感じている。まあ、いまごろこんなことを書いていたら、あるいは昔からリバタリアンだったひとには怒られるんじゃないかとは思うけどね。