猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、isbn:4140910240)

 最初に読んだときは、旅先で「軽く」読んでしまったのだけど、評のネタにしようと思って読み返してみたら、思いのほか難しい。けっきょくこの「評」を発表するまでに4〜5回読み返した。読み返したからって、読みが正確になっているという保証はどこにもないんだけど。
 ともかく「抵抗としての無反省」とか「コピーライターの思想」とか「純粋テレビ」とか、名づけが巧い。北田さんはじつは変名でコピーライターをやっているのではないかと思ったりするぐらいだ。
 ところが、こういう巧い名づけに引きこまれて軽く読みすすめると、いつの間にか「コピーライターの思想」の術中に落ちてしまう。「ことばと事物」の関係を「指し示すものと指し示されるもの」(シニフィアンシニフィエ)の関係から引き離して、「ことば」の独自性を打ち出すのが北田さんのいう「コピーライターの思想」だ。で、この本の北田さんの巧い名づけに引きこまれると、つい北田さんがそのことばで何を意味しようとしているかを確認するのを怠って先へと進んでしまう。それで最後まで到達できるのだけど……あとでこの本に何が書いてあったか「総括」しようとすると、この本の論理的構造は思いのほかつかみにくい。
 で、この本はわりときっちりした論理構成を持っている。つまり、巧い名づけにはちゃんと「そのことばで指し示すもの」がわりとはっきり存在しているのだ。
 北田さんによると、「主体性」を求める「反省」から「アイロニー」という「反省」(世界や自分のことをよく考えて、その関係づけを見出すこと……かな?)へという時代の思潮の流れが描かれ、その「アイロニー」の形式での「反省」が行き着くところまで行ったのがいまの時代だという。この本は「主体性探求型の反省衰滅史+アイロニー型の反省興隆史」という感じになりそうだ。連合赤軍事件を主体性探求型の「反省」の暴走による破綻と捉え、その破綻を回避するための「抵抗」として導入されたアイロニーが新たな「反省」の形式になり、行き着くところまで行ってしまう。その過程を描くのがこの本だ。
 東浩紀さん(id:hazuma)はこの本を「1980年代論」と読んでいるようだけど、私はあまりそうは思えなかった。たしかに、1980年代が、「主体性探求型反省」が衰滅し、それへの「抵抗」であった「アイロニー」がその「反省」の地位を継承または簒奪するというカナメになる時代だという位置づけは理解できるけど。
 私がこの本を1980年代論として読めないのは、もしかすると、1980年代というのは私が20歳になった時期で、この時期のことは気恥ずかしさが先立ってしまうからかも知れないと思う。