猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

今日、買ってきた本

 ほかの本を探していて、ふと目にとまったのが将棋の先崎学八段の『最強の駒落ち』(講談社現代新書isbn:406149757x)……で、買ってきた。
 まだ前書きと第一章の最初を読んだだけだ。でも、自分の体験と較べて、さっそくなるほどと納得した。
 小学生のころ、私は将棋が好きだった。でも弱かった。一時期、小学校の将棋クラブにも入っていたけれど、そのうちクラブ活動にも出なくなって、いまでも将棋は「指せるけれどものすごく弱い」ままだ。なんせ、駒の動かしかたもよく覚えていない初心者と指して負けるぐらいである(まあ、私が相手に助言したからでもあるけど)。
 ちなみに、対戦を観るのはいまでも好きで、日曜の朝に家にいて、しかも目が覚めていたら(^^;、NHK杯戦をずっと観ている。先崎八段の名まえもNHK杯戦で覚えた。
 で、小学校で将棋クラブに入ったとき、最初に教えられたのが駒組みだった。矢倉とか美濃囲い(高美濃、銀冠も含む)とか穴熊とか。ともかく、駒組みをずらずら並べて、ノートに写して覚えろというわけだ。私は矢倉(金矢倉と銀矢倉)と穴熊を覚えたところで挫折したので、いまだに美濃囲いが組めない。
 当時は、少なくともその将棋クラブでは穴熊というと「へんな戦法」と言われていた。穴熊で勝ったりしても、それは「相手が未熟なだけ」と思われていたように思う。また、横歩取りは「横歩を払う大バカ野郎」と言われて下品な戦法とされていたと覚えている。
 ともかく、そのおかげで、矢倉だけは組めるのだけど、それからどう戦っていいかがまったく身についていない。まして組む途中に攻められたりすると、どう戦っていいかわからなくなる。へんに受けると、駒どうしの連携がはずれてしまって、へんなところに角を成られたり、やっかいなところに桂馬を打たれたり、王手飛車取りを食らったりする。そういうので負けつづけて、けっきょく自分ではめったに将棋を指さなくなった。
 初心者はまず駒落ちから始めるべきだというのが先崎さんの主張だ。まえがきでこれを読んだときには目から鱗が落ちた思いだった(「目から鱗が落ちる」って聖書のたとえだよね?)。
 将棋の場合、上手が駒落ちを嫌うのは、この本に書いてあるとおり、普通の「定跡」が通用しないからだろう。つまり、定跡の集積で手筋を覚えているひとには、駒落ちは勝手が違って指しにくいということになる。
 で、私が上手を持つ可能性はあまりないので、上手の「指しにくさ」は私にはなかなかわからないのだけど、下手がなぜ駒落ちを嫌うかというと、これは身に覚えがある。自分だけが飛車角を使いこなしているうちはなかなか気分がいいのだけど、飛車や角を上手に取られるともうどうしようもない。こちらには大駒がないのだから、手も足も出なくて負けてしまう。上手が飛車と角を取ったときには、もう一枚の飛車や角を打てるようにしておいてくれれば気が楽になるんだけど……でも、「失った駒は相手が使ってくる」という感覚を身につけることは将棋の上達にはだいじなことだし、それに、かりにそういう「もう一枚打つ」というルールがアリだとしても、その飛車・角まで取られて上手が二枚ずつ大駒を活用してきたらさらにお手上げである。
 先崎八段の考えは、下手は駒落ちで駒の動かしかたを覚えて上達するし、上手は駒落ちで戦うことでそれまで気づかなかった駒の活用法を見出してさらに強くなるということだ。実戦のなかで覚えていくというのはそういうことなんだろう。最初から意地を張って背伸びをして対等の条件で戦うことばかりが上達の道ではないということを考えさせられた。これは将棋だけに言えることではないだろう。
 ちなみに、先のほうを読んでいないのでよくわからないのだけど、「待った」というのも最初のうちはアリなんじゃないかなと思ったりもする。棋士はちゃんと全部の手筋を覚えているから、対局が終わってから「あそこでこうやっていれば」という反芻ができるのだけど、初心者はもちろん、中心者ぐらいでも、手筋の全部はちゃんと覚えていないものだと思う。あとで「あの局面の駒配置ってどうだったっけ?」と言っても、勝ったほうと負けたほうで覚えている駒配置がぜんぜん違ったりする。これじゃ手筋の検討も何もあったものではない。そういうときに、待ったをアリにして、いい手を検討しながら対戦していくというのも一つの方法なんじゃないかなと思ったりもする。