猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

福岡伸一『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス、isbn:4062575043)

 谷口義明『暗黒宇宙の謎』(「あんこ空中の謎」って何?! > うちのATOK)を買おうとしたら、隣にこの本が平積みになっていたのでふと買ってしまった。「狂牛病(BSE)の病原体がプリオンだというのはまちがい……かも知れない」ということを主張した本である。
 正直に言って、買ったときには「どうせトンデモじゃないの?」と思っていた。でも、読み進めてみると、福岡さんの疑念にはもっともなところがあると感じた。
 福岡さんは、プリオン狂牛病(をはじめとする「伝達性スポンジ状脳症」)と関係があることは認める。
 ついでながら、福岡さんは、「プリオンタンパク質」と「プリオン」を区別していて、「プリオンタンパク質」のなかに、細胞に存在してはいるけれども病原性のない「正常」なものと、病原性のある「異常」なものがあるとする。その「異常プリオンタンパク質」のみを「プリオン」と呼んでいる。
 福岡さんのいう「プリオン説」は、そのプリオン自体が生物から生物へと「感染」して病気を引き起こすという説である。プリオン=異常型プリオンタンパク質が動物の体に入ると、どの動物(哺乳類?)にも存在している正常型プリオンタンパク質を次々に異常型に変えてしまい、生命を奪ってしまうのだとする説だ。
 しかし、福岡さんは、この説にいくつかの疑問を出す。
 1. まず、病原体は遺伝子を載せたDNAかRNAを持ち、その複製により増殖するという生物学の基本的な考えかた(「セントラル・ドグマ」と言うんだそうだ。まあ、10年ほど前にテレビ東京あたりで聞いたような記憶のあることばだけど)から逸脱している。
 2. プリオン説は、プリオンが病気の原因でなく、病気の結果として生成されたものだという可能性を排除しきれていない。
 3. (2.に関連して)プリオン説は、病原体がタンパク質を分解する物質に弱いことを、病原体がタンパク質であることの証拠としている。しかし、たとえばウィルスも外部を覆っているタンパク質を破壊されると生存できないのであり、この「証拠」では病原体がウィルスである可能性を排除できない。
 4. プリオン説は、異常型プリオンタンパク質によって正常型プリオンタンパク質が次々に異常型(=病原体としての「プリオン」)に変化するという。しかし、タンパク質分子の構造を変えるには、いちど固定した化学結合を変えなければならない。プリオン説では異常型が「鋳型」になると説明するが、「鋳型」だけでは結合を変化させることができない。いちど正常型として固定したタンパク質の結合を切り離し、異常型の結合に落ちつかせるためには、エネルギーを与えてやること必要だ(「鋳型」があっても加熱して金属を融かしてやらなければ鋳物にならないのと同じである)。そのエネルギーはどこから来るのかがプリオン説では説明できない。
 5. (2.に関連して)プリオン説は、単純に「病原体を与えれば発症した」という実験によって論証されていない。たしかに「病原体を与えれば発症した」という解釈を許すような複雑な過程の実験は行われているのだが、与えられたものにはプリオン(異常型プリオンタンパク質)以外のものも混ざっており、「プリオン以外の病原体が存在して、それによって発症した」という可能性をも許容するものになっている。
 6. 伝達性スポンジ状脳症の感染力を検証すると、検証に利用する組織によっては、感染力が大きな時期とプリオン(異常型プリオンタンパク質)が大量に蓄積されている時期とが一致しない。感染力が弱まってからプリオンの量が増える現象は、むしろ、プリオンは病気の結果できる生成物であり、病原体そのものではないという解釈によく一致するのではないか。
 7. 伝達性スポンジ状脳症の一つである羊のスクレイピー(狂羊病……とでも言うのかな? もっともこっちが「元祖」らしいから、狂牛病を「牛スクレイピー」と言うべきなんだろう)には、病原体の系統によって微妙に発症のぐあいに差異がある。これは、たとえばインフルエンザウィルスにH何N某型という「型」があるようなものと考えればかんたんに説明できるが、タンパク質自体が病原体だと考えると不自然である。
 8. 伝達性スポンジ状脳症を次から次へと(「継代」的に)感染させていくと、だんだん潜伏期間が短くなっていく。このような現象は、ウィルスで感染すると考えればかんたんに説明できるが、タンパク質自体が病原体だと考えると説明が難しい。
 9. プリオン説によれば、正常型プリオンタンパク質自体がまれに異常型プリオンタンパク質=プリオンに変化して、その異常型が感染力を持ち、発症するばあいがあるという。その確率は、人間の伝達性スポンジ状脳症である(クロイツフェルト・)ヤコブ病では一年で100万人に一人だという(もちろん狂牛病から感染した例は除外して)。牛でも同程度の確率だと考えれば、1億頭の牛がいるアメリカ(合衆国)では、一年に100頭(1億÷100万)の正常な牛が狂牛病を発症しているはずだが、そんなデータはない。他の国でも同様である。
 10. あとひとつつけ加えれば、プリオン説でノーベル賞を取ったプルシナーは、賞を取ることを最初から目指していた野心家であり、学問に対するその態度には十分な信頼を置けないところがある。
 福岡さんが挙げている疑問はだいたいこんなところだろう。
 ただ、福岡さんの主張するウィルス説にも、何よりウィルスが発見されないこと、感染しても免疫反応が起こらないこと、ウィルスにしては熱に強そうなこと、放射線にも強いことなどの難点がある。その全部をクリアするのもそうかんたんではない気がする。
 ただ、この本を読んで、素人の目から見ても、プリオン説にはたしかに解決すべき問題があるように思った。それは、ウィルスについてよく言われる「あまりに強力なウィルスは生存できない(あまりに強力なウィルスは自分に適した宿主を一瞬で絶滅させてしまうから)」という逆説と同じものだ。
 異常型(=病原体としてのプリオン)がそんなに強力に正常型を異常型に変化させてしまうのならば、さっさと多くの動物に広がって、動物を死滅させてしまっているはずだ。プリオンは生物の種の壁をかんたんに越える。羊から牛へ、牛から人へと感染したというのだから。だから、食物連鎖の前のほうにいる動物に異常型が発生したら、それはその後ろに続く動物に次々に感染していき、食物連鎖の上のほうにいる動物は次々に「狂×病」で倒れてしまったはずだ。ところが、実際にはそうなっていない。この本によると、同じ動物でも、プリオンに感染しやすい型と感染しにくい型がいるらしいけれど、少なくとも感染しやすい型は全滅してしまっているはずだ。でもこれも実際にはそうなっていない。
 しかも、プリオン説の言うように、正常型が一定の確率で異常型に変化するのならば、「狂×病」ははるか昔から動物の世界に存在しているはずだ。ところが、実際には、狂羊病(羊のスクレイピー)が歴史上のある時点から始まり、20世紀後半になってそれが牛に伝わり、牛を食った人間に伝わった。それは、他の疾病と同じように、歴史上のある時点で、ウィルスの遺伝子が変異して感染性を獲得したのだと考えたほうが楽な感じがする。
 スクレイピー(狂羊病)の記録は1730年ごろからあるというけれど、ヨーロッパではそれより前から羊を飼っていたわけで、それ以前に記録がないのは、たんに見過ごされたからだろうか、それとも病気自体が存在しなかったのか。また、羊を飼っていたのはヨーロッパ人だけではない。昔から羊にへんな病気があったなら、モンゴルや中央アジア遊牧民のあいだに、その病気の恐怖を伝える話や対処法に関する知恵が伝わっているはずだ。遊牧民にとっては羊が奇病で死滅するというのは死活問題なのだから。
 どちらにしても、私たちは、狂牛病対策として、ウィルス性の感染症と同じ方式で対処している。病原体を人間にも他の個体にも触れないように厳重に隔離するというフーコーっぽいやり方だ。だが、プリオン説によれば、正常型プリオンタンパク質は異常型プリオンタンパク質に触れなくてもまれに自発的に異常型に変異し、しかもその異常型も感染力を有するという。したがって、もしプリオン説が正しいのならば、このフーコーっぽい「空間的に隔離する」というやり方には限度がある。外部の「敵」を徹底して封じこめるとともに、内部に「敵」が発生する可能性を常に監視していなければならないことになる。かくて、近代的な「敵の隔離、封じこめ」から、自分の社会内部に「敵」が発生することを常に警戒する「対テロ」・「監視社会」の論理へと、疾病対策の世界も変異していかなければならないことになるんじゃないかと思ったりもするわけなのだが。
 こういうのを考えると、社会でのものの考えかた(「エピステーメー」って言うの? いや、よく知らないけど)と生物学の発想というのも、けっこう関連あるかも知れないと思ったりするのだけど……まあ、これはこの本の範囲を超えた感想だろうなぁ。