猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

碇義朗『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫、isbn:4769821379)

 以前にも取りあげた(id:r_kiyose:20050726)陸軍の三式戦「飛燕」の誕生から敗戦までを技術面を中心に追った本である。液冷の三式戦のエンジンを空冷につけかえた五式戦の開発やその戦果についても1章が設けられている。
 それだけではなくて、碇さんの本がいつもそうであるように、搭乗員やそれを取り巻く人たち、たとえば学徒動員で勤労動員されてきた生徒や女学生の話も紹介されている。この本で特に印象的だったのは「風18918部隊」の女の人たちだ。戦前・戦中のことで、おおっぴらに「告白」なんかできない将兵が、いろんなことばややり方で気もちを伝えようとする。しかし、その気もちが伝わったときには、その若い将校や兵士は、特攻隊員として出撃してしまったり、戦死していたりする。
 この本によると、液冷エンジンを積んだ飛燕は、日本陸海軍の戦闘機のなかでもとくにすぐれた戦闘機だった。高速性に加えて挌闘戦にも優れ、航続距離もあって、本家のメッサーシュミット109を上回る性能を持っていた。しかし、それは、エンジン整備の負担が整備員に強くのしかかることにもつながった。
 それに関連して印象的に感じたのが「工業力の格差」という問題だ。軍事産業の工業力の格差は、軍需工場の数やその生産力だけで左右されるのではない。たとえば、アメリカ(合衆国)では、教育程度が低くて文字が読めないような兵士でも、自動車の運転はするので、ある程度は飛行機の機械についても勘が働く。しかし、日本では、自動車をはじめ、民生用の機械が普及していないので、軍に入って飛行機に接するのが、最初に飛行機に接したという以前に最初に「機械」というものに接した経験ということになる。そのことがもたらした格差は、工場や設備など「ハード」面での格差をさらに大きなものにしてしまったという印象がある。
 また、日本では、「飛燕」のような戦闘機を含めて、兵器を作るのに熟練工の技術に頼っていた。ところが、戦争が激しくなると、その熟練工が徴兵されてしまう。そうすると、未熟練の工員や学徒動員の学生・生徒たちがその穴を埋めることになる。そうすると製品の質が急速に下がってしまう。しかも、その徴兵した熟練工が、その技術とは何の関係もない荷物運びとかやらされている。旧帝国陸海軍って人材の使いかたがぜんぜんダメだったんだな――と思って身近なところを顧みてみると……この先はノーコメントでございます。
 太平洋戦争(対米英戦争)開戦当時、空母の搭乗員の質が非常に高くて、めざましい戦果を挙げたけれど、その搭乗員が失われると、やがて空母への発着艦すらおぼつかない搭乗員で戦わなければならなかったという話は前から知っていた。それは搭乗員だけではなかった。日本の戦争遂行のあらゆる局面にあったのだ。
 「優れた技術を持つごく一部の人たちと、その優れた技術をまったく持たない大衆」という構成の国家は、やはり総力戦になると弱い。最初はその優れた人たちが一丸となってめざましい力を発揮するが、その人たちの集団が失われると後が続かない。だから、たぶん、当時の指導部はそういう構成の国家にふさわしい戦争指導をしなければならなかったのだろう。ところが、最初に優れた人たちがその力を結集して成果を挙げれば、次の段階ではもう一段上の成果を、さらに次の段階ではさらに一段上の成果を求めてしまう。それで思いがけない潜在力が見いだされ、発揮されることもあるけれど、全体にはそういうやり方ですべての局面を支えきることはできなくなってしまう。どこかに無理が出るのだ。
 こういうところって、私たちの社会はあんまり「反省」してないような気もするのだけど、どうなんだろう?