猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「回顧的押井守論」の補足(3)

 「情報の劣化」という構想については、それに加えて、本文に書いたとおり、逸身喜一郎さんのラテン語の本に書いてあった「われ思う」の構造についての議論がネタになっている。本文ではインド‐ヨーロッパ語系言語に引きつけた表現になってしまったので、もういちど、もう少し一般的な場合に直して、ここで展開してみよう。
 「私とは何か?」に対して「私とはAである」と答えられたとして、ではさらに「その私とは何か?」をさらに突きつめて問うてみるとする。すると、「私とは何か?」→「私はAである」→「では「Aである私」とは何か?」→「「Aである私」とはBである」→「では「「Aである私」とはBである私」とは何か?」→「「「Aである私」とはBである私」とはCである」→「では「「「Aである私」とはBである私」とはCである私」とは何か?」→……となって、いつまでも最終的な答えに到達しない。それはまだかまわない。より問題なのは、問いの主題のほうが「Aである私」、「「Aである私」とはBである私」、「「「Aである私」とはBである私」とはCである私」……となって、「〜である私」という表現が何重にも積み重なってしまうことだ。最初に問題にしたときの「私」が「である」の重なりの彼方に遠のいてしまう。これが「劣化コピー」の繰り返しのように私には思えた。
 この問いの重なりに対して、「いま考えている私が私である」という、解けない結び目を剣で切ってしまうような(いや〜よく発生するんですよ輪ゴムとか某店のおばさんが結んでくれたレジ袋とかで、「ゴルディオスの結び目」が。それをはさみで切るたびに「私もアジアの征服者になれるかな」と思うのだが、あれはゴルディオス王が結んだ結び目だからアジアの征服者になれるのだな)回答を示したのがデカルトの『方法序説』で、その部分だけを取り出してこれが「近代哲学の基礎」のように語られている。少なくとも私の高校生や大学生の時代にはそうだった。
 でも、『方法序説』でのデカルトの思考は「神の存在」を常に意識して進められている。「われ思う、ゆえにわれあり」は『方法序説』の結論でも何でもなく「序説」の中間地点に過ぎない。だから、この「いま「私は何か」と考えている私が私だ」という認識も、「神の存在」を認識し、確信するためのステップのひとつに過ぎない(のだろうと思う)。それを「最終的な回答」と見て「近代的な私とは何か」の回答にしてしまうのがもともと無理なのだろうと思う。

 この「革命家の思い描く人民・階級」にしても「私とは何か?」の探求にしても、重要なのは、問いを重ねて行くにつれてかえって「劣化」が進んでしまうという点だ。革命が起こったとき、当初は「敵」をやっつけることでまとまっている「革命派」とか「革命大衆」とかも、大きな革命では、やがて「人民」とか「労働者」とかの敵を内部に求めるようになって、ぐちゃぐちゃになってしまうことがよくある。「人民」や「労働者」のために革命を起こす。しかし、「人民」とは何で「労働者」とは何か? もう少し具体的にいうと、「あのひとは人民なのか、労働者なのか、それともその敵か」ということを探り始めて、内部で互いに「敵」を見出し始める。たとえば、それまでの「敵」の地主とか資本家とかが「打倒」されたあと、こんどは革命の中心人物だった人たちが特権を得て贅沢な生活を始める。あれはやっぱり尊敬すべき指導者なのか、それとも革命を利用して私腹を肥やす「敵」なのかということが考えられ、議論されるようになってしまう。そしてそれは内部での武力闘争・実力闘争へと発展する。
 このようにして「革命運動」がぐちゃぐちゃになっていく過程は、押井守が『パトレイバー』第二期OVAに書いた「火の七日間」にパロディー化されている。

 これは「私とは何か」の探求の場合でも同じだ。「私とは何か」を考えた場合、12月31日にビッグサイトで行列に並んでいる自分を「これが自分だ!」とか思っているのが、たとえ「一般化」はできなくても問いへの答えとしてはいちばん明確で、「私はオタクだ」→「オタクである私とは何か?」→「12月31日に有明で行列に並んでいるような人だ」→「12月31日に有明で行列に並んでいるようなオタクである私とは何か?」とか考えを突きつめたりすると……ね? わけがわからなくなっていくでしょう?

 より確かな答えを求めて問いを重ねるのに、そのたびに、「何を問うていたか」というところからどんどん遠ざかってしまう。
 遠ざかるのは問うている自分のほうである。最初に直観で感じたことがいちばん確かで、それを明確にしようと問いを重ねるたびに、逆に自分が最初に与えられたものから遠ざかって行ってしまう。問いの意図とは逆に、である。そういうなかで、何がどうなっているのかよくわからないけれど、自分がこの使命、この規範を与えられたことだけは確かだという意識が浮かび上がってくるわけだ。自分がわけのわからない状態に落ちていくのと並行して――たぶんわけのわからない状態に落ちていくからこそ――、「これだけは確かなもの」が確信されていく。そうやって「召命」意識が形成されるのだ。私はそう考えてみた。

 「劣化コピー」を繰り返すことで、なぜ「召命」が「召命」らしく見えるようになるかというと、「何か情報がありそうなのに、何の情報かが読み取れない」という部分があるからだ。受け取った人間は、そこにあったはずの情報を再構成しようとしてしまう。正しい情報を再構成することもあるだろうけれども、自分の思いこみで、もともとありもしなかった情報を「再構成」してしまうこともあるだろう。どうしても「再構成」できず、「自分は情報のごく一部しか受け取っていない、ほかの部分にはもっとだいじなことが書いてあったはずだ」という意識が残ることもあるだろう。
 また、そのような「何の情報か読み取れない」という部分が大部分なのに、一部だけ意味が取れるとすると、その部分は、重要な意味を持つ部分になってしまう。「読み取れない部分」を「再構成」するにはそこを手がかりにするしかないからだ。探偵にとっての手がかりのようなものだ。『迷宮物件』、劇場版『パトレイバー』、『Talking Head』から『イノセンス』まで、押井作品を支える主要登場人物は「探偵」の性格を強く持っている。
 そういう「読み取れるごく一部」の情報が「召命」として特別なものに感じられてしまうというのが私の構想である。
 もちろん、情報の「再構成」などに思い悩まず、大部分が読み取れないようなコピーが回ってきたらそのままゴミ箱に捨ててしまうような人もいるだろう。そのほうが普通かも知れない。けれども、ともかく、押井守が描く「現場監督」は、自分に「上位のもの」から伝えられてきたものの「解読可能な部分」から自分に与えられた使命と規範を読み取ってしまうようなキャラクターなのだ。
 つまり、キリスト教の「召命」の考えかた(だと私が思うもの)のように、客観的に神様が存在して、その神様が「召命」を人間に与えているというのとは違う。もしかするとそうかも知れないけれど、人間の一部に、自分に「召命」が与えられていると信じてそれを読み取ろうとし、読み取った結果を自分の使命と規範にしてしまう者がいるということが重要なのである。神様から実際に何かの命令が与えられて、その命令がコピーの繰り返しで劣化し、使命と規範以外が読み取れなくなっているというより、自分の周囲の「自分にとって意味のある情報」と「自分には意味の感じられない情報」から「神に与えられた使命と規範」を勝手に「再構成」してしまう人間の問題だ(でもキリスト教にも「不合理であるがゆえにわれ信ず」ということばがある)。
 そして、押井作品の「現場監督」的なキャラクターとは、自分に「与えられているもの」を信じ、自分とは何かを絶えず問いなおし、そのことによって不安におちいり、そのためにいっそう使命感と規範意識を確信していくキャラクターである。人間とはそういうものだというのではなく、押井作品ではそういう人間が作品を支える主要キャラクターに選ばれるということだ。

 そして、その議論を、そういう人物を主要キャラクターとして描こうとする押井守自身が、そういう「召命」意識の持ち主なのではないか、少なくとも「映画を作るときの押井守」はそういう人間なのではないかという議論へと私は繋げている。
 これも、「私がそう思う」というだけで、絶対に確実な根拠があるわけでもない。「作品にこういうキャラクターがよく登場する」ということと、作者本人がそういうキャラクターであるということは、まったく別である。作品に登場するキャラクターに、作者本人が投影されているとも限らず、それが作者の理想であるとも限らない。
 ただ、押井作品で「召命」意識を持っているキャラクターが、作品を支える主要キャラクターとしてよく描かれるということ、それは「現場監督」的なキャラクターであり、一方で押井守自身も映画監督を「現場監督」として捉えているらしいことなどから推測しているだけだ。「毎日、決まった枚数(コマ数)のコンテを切る」という、「プロテスタント的禁欲」を思わせる仕事のやり方からも、そのことを感じる。
 でも、それだけのことであって、それは私の思いこみに過ぎないかも知れない。でもそれでいいのだろうと思う。
 あえて言えば、評論に求められているのは、押井さん自身がどういう人間であるかということの解明ではない。押井守の作品を鑑賞するときに作者をどういう人物と見なせばより深く豊かに鑑賞できるかを提案するのが評論の役割である。だから、現実の押井さんが、たとえ「召命」意識なんかろくに持たない人であっても別にかまわない。逆に、現実の押井さんが「召命」意識の強い人であっても、「召命」意識というものを意識して押井作品を観てもちっとも押井作品がよりおもしろく感じられないというのであれば、評論としては失敗だろう。