猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

映画『スカイ・クロラ』鑑賞覚え書き(ネタバレあり)

 ということで、上映館も少なくなった映画『スカイ・クロラ』を観て感じたことなどを、順不同に、いま思いついた順に書き記します。
 基本的に(原作、他作品についても)ネタバレには配慮せずに書きますので、ご覧になっていない方はご注意ください。
 また、原作については、私はあまり熱心な読者とは言えず、まだ『スカイ・クロラ』しか読んでいません。

 ○公開前の触れこみや、パンフレットに書いてあることからすれば、「押井監督が、自分のやりたいことをやるというより、若い人のために自分の持つ演出術を提供する作品」という位置づけのようだけれど、やっぱり「押井さんの映画」だなあという感じです。「押井さんの若かったころ」の作品のテイストを感じる作品という評価も何人かから聞きました。これについては、そう思うところもあるし、一方で、「人形」のようなキャラの動かしかたなどには『イノセンス』・『立喰師』を踏まえていると感じます。

 ○ストーリーの軸は、いちおう、主人公の「自分は何者か?」という謎解きにあるらしいということは、だいぶあとになってからわかりました。
 自分が「キルドレ」であることは知っていても、「キルドレ」とは何か、なぜ存在するのかを考えようとしなかった、考えるきっかけも持たなかった主人公が、「自分は何者か」―「キルドレとは何者で、なぜ存在するのか」―「自分と、キルドレという存在がが存在している世界、その存在が必要とされている世界とは何者か」という謎解きへと進んで行き、自分自身の結論を出す、決断を下すという流れがある。これは、私には、劇場版『パトレイバー』(第一作)の後藤隊長や篠原遊馬を思わせるものがありました。そういえば、今日、「『パトレイバー』記念切手」をはじめて拝見しましたよ。
 『イノセンス』でも「一連の事件の犯人はだれか」という謎解きがあったわけですが、どちらかというとストーリーのなかではあからさまには表面には出てこないで、伏在していたという感じでした。「謎解きの伏在」は、今回もそうかな、と思います。

 ○原作で、主人公をはじめ、「キルドレ」たちが持っていた「大人っぽい」一面は捨象されていたような印象を私は受けました。酒・煙草をほぼ常習的に嗜んでいるくらい? そういうところはたしかに「青春映画」なのかな、とも思います。でも、これは、原作のシリーズを読んでみないと何とも言えないですね。

 ○「印象に残ったキャラ」は三ツ矢碧です。夢に出てきました(笑)。栗山千明の声はやっぱりいいな。あと、竹中直人の「マスター」が意外と印象に残っていたり。榊原良子は、この作品に限らず、最近の押井作品のなかでの位置が(映画の)笹倉と一致している感じで適役だったと思います。

 ○パンフレットによると、スカイリィのデザインは「父の男根」の象徴で、「ティーチャ」が「超えられない絶対的な父」を象徴しているということなんだそうだけど、まあそうなのだろうけど、作った側の意図はどうあれ、そういう「エディプスコンプレックス」を基調にした読み解きだけでは、なんか「先に進まない」感じがします。それより、プロペラシャフトに機銃(機関銃? というか機関砲?)を仕込むというのは、たしかに狙いが確実でいいのかも知れないけれど、可能だとしても整備がすごくめんどうな気がするんだけど、どうなのでしょう?
 登場する飛行機のプロペラが基本的にどれも二重反転プロペラになっているのは、実際の効果としてどうなんだろう? 1930年代以後の実際のレシプロ戦闘機では二重反転プロペラの機体は私は思い出せないのだけれど(もちろん私の知識の限界が大きいのだけど)。トルクのことを考えれば二重反転プロペラのほうがよいし、私も二重反転プロペラのメカニックが好きなんだけど。これもやっぱり整備がたいへんじゃないのかな?
 「同じことが繰り返される日常が変わって行く」ということを、原作の『スカイ・クロラ』ではジェットエンジンの登場に託していた(と思う)わけだけれど、それは映画では違う扱いになっていましたね。
 「原作と違う または 同じ」ところを探してそんなに意味のある映画ではないと思うけど、ともかく、「大人と子ども」の性格やその「位置づけ」も、原作と映画ではまったく別と見たほうがいいかな、とは思いました。

 ○原作に出てきた「プッシャとトラクタ」問題については映画には出てきませんでした。原作の草薙と函南の会話では、原作の世界ではプッシャのほうが技術的にはメリットが大きいと認められているようですが、映画でスカイリィと散香の空戦を観ると、トラクタのほうが運動性能がよいように描かれていた感じがするのですけど。まあ相手が「ティーチャ」だからかも知れないけれど。

 ○原作に出てこない(と思ったけど)「笹倉の犬」を見て、「やっぱり押井さんの映画だな」と思うのが普通なんでしょうが。
 「あ、バロンだ」と思ったと言ったら怒られる? ……その、バロンの好きな人に。

 ○スカイリィと、スカイリィに乗った「ティーチャ」に「父」の象徴を重ねるとすれば、それは一神教的な「父なる神」の象徴ととったほうが私にはしっくり来ます。もちろん、「父なる神」のイメージと「エディプスコンプレックス」とは、ヨーロッパ文化の読み解きのなかではつながっているんだろうな、とは思うんですが。ただ、日本の文化――伝統的文化でも現在の文化でもいいけど――で、「父」に「規範を与える絶対的な長」という役割を読み込むのは、なんか無理な印象はありますけど。日本にも「家」社会はあったわけだけれど、「家」の規範を「父」が与えるという仕組みの「家父長制」がそんなに強かったかというと疑問な感じもあって、むしろ、「父」本人からは独立した「家」の規範というのが強かったのかな、と思いますけれど。
 それより、「ティーチャ」というのは、これまでの押井作品の登場人物でいうと、劇場版『パトレイバー』(一作め)の帆場暎一みたいな位置づけなのかな、と。だから、「ティーチャ」はじつはすでに死んでいて、あのスカイリィは『パトレイバー』の暴走レイバーのような「純粋な悪意」によって動かされているんだ――みたいに読んでしまうのは、(現在となっては)オールド押井ファンの悪い癖? それはそれで、エディプスコンプレックス的解釈とはまた別の「罠」に落ちるかな、とは思いますけど。
 ともかく、最初に観たときに感じたのは、「雲の上の空」と「雲の下の地上」は別の世界という構造で演出していて、「雲の上」は『アヴァロン』とかに象徴的に出ていた「他界」という位置づけなんだろうな――と思っていたら、パンフレットにもそう書いてありましたね。
 その「雲の上/雲の下」の二重構造で言えば、「キルドレ」というのは、魂そのものは「雲の上」にあって(フーコのせりふにありました)、そこからときおり身体を与えられて「雲の下」に下りてくる存在なのかな、と、思ったりしました。「ティーチャ」は、その魂を「雲の上」に引き上げる役割を持った存在なのかな、と。
 ただ、草薙水素の説明によれば、この世界で「戦争」があるのは、人びとが「生」を実感するために不可欠な「ゲーム」として――ということなので、ティーチャがそういう「父なる神」‐「主宰神」だとしても、それは「ゲームのなかの主宰神」なのかな、と。そうすると、『アヴァロン』の「ビショップ」や「ゲームマスター」に近づくのかな、と思ったり。
 「ゲームマスター」ということならば、竹中直人が声を演じる「マスター」がじつはゲーム全体の演出者――だったりするとおもしろいな、とか思ったりもします。

 ○この「ゲームとしての戦争」をただちに「戦争のフェイク(偽物、偽作)」とみて、「虚構の時代」という時代論のフォーマットに落とし込むのは、まあまちがいではないのかも知れないけど、それも、その読み解きではやはり限界のあるような……。「終わりなき日常」みたいな「メッセージ」を基調にする読み解きかたについても同じことを感じます。むしろ、そういう「虚構の時代」論・「終わりなき日常」論を「もっともだ」と思ってしまう状態を、「素材」にして構成されている、として、「メタ」的に読み解いたほうがおもしろいかな、と。まあ、現在は「メタ的な読み解き」そのものが「メタ」的な読み解きの対象になる時代だからねぇ。難しいけど。
 作者の意図は、まあ、まじめなメッセージかもしれないし、よくわからないのだけど。あ、コンテが出てるんだったら買わなきゃ。
 いや、私が『スカイ・クロラ』を観た映画館のすぐ近くの書店には、『ポニョ』の本は平積みになっているのに、『スカイ・クロラ』関連書籍が一冊もない、森博嗣の別の本はあるのに、という徹底ぶりで(まあ入荷数を少なくしたら売れちゃって再入荷してないんだろうけど)、今回は関連の本って一冊も見ていない。

 ○「ティーチャ」は象徴が「猫」なので、『紅い眼鏡』以来の「犬‐猫」構造の映画なのかなとも思いますけど、これもオールド押井ファンの悪い癖?

 ○『スカイ・クロラ』は、現在のところ、私にとって「観るたびに印象の変わる映画」です。2回め、3回めに観たときには、知的興味の湧く映画ではあっても「感動する映画」とはちょっと違うと思っていたら、4回めに観たときには恥ずかしいくらいに感動していました。
 押井作品のなかでも、私にとって「これはこういう映画だ」となかなか言いにくい作品――という印象です。現在のところ。