猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

佐藤文隆『アインシュタインの反乱と量子コンピュータ』京都大学学術出版会(学術選書)、isbn:9784876988419

 アインシュタイン量子力学を批判して「神様はさいころ遊びなどしない(神は賽を振りたまわず)」と言った――という話は、その手の話題が好きな人にはよく知られているのではないかと思います。そんなこともあって、アインシュタインは、相対性理論の面では大きな成果を上げた偉人だけれど、量子力学には学問の発展についていくことのできなかった人と思われています。
 けれども、アインシュタイン量子力学に突きつけた疑問は、じつはきちんと解決されておらず、ただ「考えるのを回避した」だけにすぎない。つまり「どうせわからないのだから」と先延ばしにされただけに過ぎない。そして、「量子コンピュータ」の時代になって、その疑問への解答が切実迫られる状況が生まれている。
 ――という内容なんだと思います。「思います」というのは――。
 書いてあることが難しすぎて私にはよくわからない からです。この本は、上の『フランス史』よりもずっと、基礎知識のない人には読みにくい本だと思います。
 量子力学というのは、この世を構成している基本単位の微粒子のレベルでは、観測するまではその粒子は同時にいくつもの状態が重なっているままで、観測することでその状態が確定するという発想をします。じゃあ人間が観測しなかったらその粒子の状態は確定しないのか? そういう疑問が出てくる。そこで、「波動関数の収束」とか「多世界解釈」とかいうさまざまな解釈が提唱されているわけです。著者は、そういう解釈は「根本的な解答の先延ばし」に過ぎない、と主張したいようです。
 これは「自然科学にとって正しさとは何か」に関係する問題意識だと思う。つまり、自然科学では、「なぜそうなるか」という説明ができればもちろんそれに越したことはないけれど、「なぜそうなっているかはわからない」というばあいもよくある。そのときには、「なぜそうなっているかはわからないけれど、その理論で現実を説明してみたらうまく説明できる。だからこの理論は正しいに違いない」という判断をします。この本によれば、量子力学の体系もそういう状況だという。この本は、そういう量子力学の状況に対して、そろそろもう一歩進んで、もう少し根本的に考えてみませんか、という挑発の本――なのでしょう。
 物理学者の生涯を描き、その学説をそれと関連させながら述べていくという、佐藤さんの得意な方法が十全に活かされている本だと思います。それはいいのですが、著者ご自身も書いておられるとおり、読んでいて脈絡が掴みにくいのと、同じ人物が「エヴェレ」と書かれたり「エベレ」と書かれたりするとか、「。。」とマルが重なっているところがそのまま放置されていたりとか、不可解な校正ミスがあるのは、やや読みにくいところです。まあ私もネットの書き込みとかではよくやるけどね。
 あと、表紙を見て『ふしぎの国のアリス』のアリスは、前のほうの髪を左右で三つ編みにして後ろで結んでいたんだ、とか、よけいなことに気づいたり。これは、もちろん、「実態は消えたのににやけ笑いだけが残っている」というチェシャー猫のほうに意図があるんだけれど。
 あ、そういえば、2回連続で猫ネタですね。