猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「獲りすぎ」はないのか?

 では、魚の資源量は「海の長周期気候変動」で左右されるから、漁業で魚を獲っても獲らなくても資源量にはあまり影響はないのか――というと、そんなことはない。魚はどこかから湧いてくるわけではなくて、親が卵を産んで、その卵が孵って育つ。「海の長周期気候変動」で生活環境が悪くなって、親魚自身が減っているときにごそっと獲ってしまっては、「長周期気候変動」で再び海の生活環境がよくなったときにも増えようがない。これから増えるぞ〜という矢先に、親魚が一網打尽になってしまっては、いくら海中環境がよくなっても増えないわけです。
 だから、「長周期気候変動」で漁獲量が減ったときには、再び「長周期気候変動」で魚資源量が回復するまで、減った魚種は禁漁にするのが「筋」だということです。そうすることで漁業は「持続可能」になる。また、「長周期気候変動」である種類が獲れなくなっているときには、他の種類の魚は豊漁になる。だから、漁獲する魚の種類を変えれば、海の資源に打撃を与えず漁を続けられる。理屈の上ではそうなるのですが、なかなかそれがかんたんではないようです。
 まず、どの船がどの種類の魚を獲るかは決まっていて、規制がある。だからかんたんに獲る魚の種類を変えることができない。また、漁獲量制限は現在も行われているけれども、あまり有効な漁獲量が設定できていないし、漁獲量制限をオーバーしても罰則のない魚の種類も多い。なぜ罰則がないかというと、日本だけが厳しい漁獲制限をしても、近海に他の国の漁船が来てごそっと魚を獲ってしまえば、日本の資源保護にはならないし、そんな状況で日本の漁船にだけ「これ以上獲ってはだめ」という罰則つきで制限を押しつけると不公平になるからです。
 お定まりの「役所の行政の硬直性」もあるみたいだけれど、漁業者のあいだも利害が細かく分かれているのが実情のようです。加えて外国との関係がある。多くの国はいま「魚食ブーム」なんだそうで、世界的に漁獲量が増えている。それだけ魚資源の取り合い(獲りあい)はシビアになっているらしい。
 そんなことを含めて、この本(本田良一『イワシはどこへ消えたのか』)を読んでいて私が何度も痛感したのが、私自身が「漁業をする人」(漁船で漁業をする人に加工業者なども含めて)のことをいかに知らないでいたかということです。魚がどうやって獲られて、どうやって加工されて店に並ぶのかわかっていない。魚はわりとよく食べるほうだと自負しているのに。中世史研究者の網野善彦さんはずっと「日本の中世史は米作農業中心で、漁村は軽視・無視されている」と強調しておられました。それは、いまの私たちの同時代の漁業や漁業者への見かたにまで続いているのかも知れないと強く感じました。
 いま必要なのは、「海の長周期気候変動」の存在を認め、それに適合した資源の回復を図りながら、同時に、外国との関係も調整して日本の資源保護を有効にし(日本の漁民が資源保護のためにがんばったとして、それがむだな努力にならないような国際的な枠組みを作って)、漁業者の生活の安定も実現するということのようです。それは「縦割り行政」のままではたぶん難しい。科学・外交・民生安定を連携させる政治的構想力と実行力が必要とされる。そういうことになるのでしょう。
 この本の著者は、私たちにできることとして、身近な国産の魚を食べるようにすることを勧めています。これならできる……と言っていいのかな? でも、国産の魚が2切れ500円ぐらいで売っている横に、1切れ70円の輸入サーモンがあったら、輸入サーモンを買ってしまうんじゃないだろうか? そういうときにも、意識して「何度かに一度は国産の魚を買う」ということが必要になるのかも知れません。それは、「消費のときに生産者のことを考える」という、野菜とかの「生産地表示」や「生産者表示」や、また「フェア・トレード」運動とかにも通じる意識なのかも知れないと思います。
 ともかく、おさかなについても、買い物をするときに、家計のことといっしょに生産者(漁獲者とか加工業者とか)のことまで考える想像力を発揮しなければいけない時代になってきたみたいです。この不況の時代に、私たちはそれでも「安ければ何でもいい」という発想から抜けて、想像力を使わなければならない。頭の使いかたを変えないといけない。