猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「自発的対称性の破れ」って何?

 ところで、この「電弱統一」理論にも「自発的対称性の破れ」という表現で「対称性」ということばが出てきます。
 液体の水のなかでは水の分子は勝手な方向に動けたけれど、エネルギーが低くなって氷になってしまうと結晶ができて特定の方向に規則正しく並ぶことしかできなくなってしまう。無数のものが好き勝手な方向に動いていると、どちらの方向への動きも同じくらい起こっているので「対称性」が保たれている。しかし動ける方向が決まると方向の偏りが起こり「対称性」が破れるというわけです。それと同じことが「空間」そのものでも起こるというふうに説明されています。子どもたちが校庭で好き勝手に遊んでいるときには、いろんな方向に運動していて「対称性」が保たれているけれど、朝礼とか体育の授業とかで整列させられると「対称性」が破れる――ということなのかな? でもそれは「自発的」ではないよね。
 「自発的対称性の破れ」の説明で、ほかによく出てくるのは、ディナーの円テーブルで椅子と椅子とのちょうど中間にナイフとフォークが置かれているときに、席に着いた人はそれぞれ右側のナイフとフォークを取る可能性と左側のナイフとフォークを取る可能性の両方があるけれど、ディナーが始まってだれか一人が右か左かどちらかのナイフとフォークを取ると、他の人もみんなそれに倣わなければならなくなる(そうでないとどこかでナイフとフォークが余り、どこかで足りなくなる)……というたとえなんですけど……これもわかったようなわからないような。「和食でお箸が」にならないのは、お箸は右や左にセットすることがないからでしょうけど……というよりこのたとえを考えたのが欧米の人だからだろうけど。ちなみに、「自発的対称性の破れ」がうまくいかず、「ナイフとフォークがどこかで余る」とか「どこかで足りなくなる」とかいう現象が宇宙でも起こる可能性があって、それを「位相的欠陥」というのだそうですよ。
 私はこの「対称性」が破れていないテーブル設定にはこれまで一回しか遭遇したことがありません。まあ「円テーブルでディナー」なんてめったに経験しないからだけど、遭遇したときには「あ、ほんとにあるんだ」と思いました。でも「対称性」が最初から破れているようにナイフとフォークを置くのが正しいテーブルセッティングじゃないのかな? 他方で、ナイフとフォークではほとんど遭遇しなくても、ワイングラスが席の中間に置いてあって、どっちを取るの?――という経験はもうちょっと多い。こういうときにはたいていワインが飲みたくてたまらない人が対称性を破ります。これはまさに「自発的」に破れるよなぁ。どっちでもいいけど。
 でも、ナイフとかフォークとかワイングラスとかとW粒子の質量とどう関係があるの? WさんとZさんはヒッグスさんにごちそう攻めに遭っていて絶えずナイフとフォークの選択を迫られているから行動が重々しくなり、光子さんはごちそうにありつけないから自由に動ける、ということ?
 ともかく、エネルギー(温度)が低くなって、空間が凍りついたおかげで、光子だけはその凍りつきに引っかからずに自由に動けるけれど、W粒子とかZ粒子とかはその凍りついた構造に引っかかるので動きが制約されてしまったということのようです。
 何にしても、ここでWやZが「空間の凍りつき」に引っかかってくれたことで、その「凍りつき」後の私たちの世界では物質が安定して存在できるようになったわけです。WやZがいまも自由に飛び交っていたら、物質は簡単にベータ崩壊してすぐに違うものに変わってしまうはずです。私たちはベータ崩壊で発生した高エネルギーの電子(ベータ線)を大量に浴びつづけて生活しなければならなかったでしょうし、炭素が知らないうちに窒素に変化してしまったりとか……何かたいへんそうです。
 じつは『シリーズ現代の天文学宇宙論I』にはもう少し複雑なことが書いてあって、「自発的対称性の破れ」が数式で説明してあります……が私にはまったくわかりません。それと、これによると、「電弱統一」相互作用を媒介している粒子にはB,W0,W+,W-の4種類あり、ヒッグス場でも質量を持たない光子はBとW0の「混合状態」なんだそうですが……なんかこれもよくわかりません。しかも、BとW0の「混合状態」はもう一つあって、それがZ粒子で、こっちはヒッグス場に「引っかかる」ので質量があるのだそうで。数式で言えば、ある「混合」ぐあいでうまく質量を表現する項の値が0になる――というわけなんだろうけど。こういうことは、数式にリアリティーを感じられるくらいに「数学の言語」に慣れないと、なかなか私たちには――少なくとも私には実感できないところです。