猫も歩けば...

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「くり込み」とは?

 「くり込み理論」の「くり込み」を「繰り込み」と漢字で書くと、「くり込み理論」がわかっていないことになるんだそうです。なぜかは私にはよくわからない。佐藤さんによると、くり込み理論の「くり込み」とは


 ……「当面こうしておいて本質は先送り」といった、突き詰めない、なげやりな、正面突破でない雰囲気を漂わすことばである。(167ページ)
ということです。「繰り入れ」とかと同じで、手もとにたぐり寄せて自分のところに入れてしまうことですね。だから、いいじゃん、べつに「繰り込み」でも。「り込み」と漢字で書くと意味が決まりすぎて、「り込み」の「いいかげんさ」が出ないからでしょうか?
 なぜ「くり込み」が必要か。これは前にも書きました。たとえば、電子の「電荷」(電子一個分の電気の量)を確定しようとすると「無限大発散の困難」というのが出てきてしまうからです。
 電子は、電磁相互作用をする(=電磁力を及ぼす)ので、電磁相互作用を媒介する粒子として光子を出します。光や電波やエックス線などの「電磁波を出す」ということなのですが、その「電磁波」を観測すると粒子のように見えるので、光子という粒子を出すと考える。
 ところが、この光子は、電子と陽電子に分かれることがある。陽電子というのは、他の性質が電子と同じで、ただ、帯びている電気がプラスだ(電子はマイナス)というところが違うだけの粒子です(スピンも逆? よく知らない。でもそうだよなぁ。光子はたしかスピン0だったと思うし)。陽電子のプラスの電気と普通の電子のマイナスの電気の量(電荷)は同じで、二つ合わさるとゼロになります。そこで、電荷がゼロの光子が分かれて「電子‐陽電子」対になったり、電子と陽電子が合わさって光子になったりということが起こる。
 光子を電磁波と考えて、電磁波のエネルギーで何もないところからいきなり電子と陽電子の対が生まれ、また、電子と陽電子がぶつかって消え、消えるときに電磁波を出す、と言っても同じことです。そっちのほうが「すなお」な表現なのかも知れない。
 ところで、電子のまわりには電磁波=光子がたえず放出されている。その光子は電子のまわりで電子‐陽電子の対を生み出すことがある。その電子と陽電子がまたそれぞれ光子を放出し、それがまた電子と陽電子の対を生み出すことがある。だとすると、一個の電子のまわりに、電子と陽電子が無数に存在することになる。その結果、一個の電子の電荷を計算しようとしても、その無数の電子と陽電子電荷が無限大の値になってしまって、計算ができなくなってしまう。これが「無限大発散の困難」というものです。
 そこで、計算の過程で「無限大」などというものが出現してしまうならば、はじめからその「無限大」を打ち消せるような「無限大」を設定しておいて、「無限大」を無効化し、計算しよう――というのがくり込み理論だということです。