猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「くり込み」は正しいか?

 では、この「くり込み」は「正しい」方法なのか?
 それはまあ、まちがっているとしたらノーベル賞は出ないだろうから、「正しい」のでしょう。しかし:
 電子のまわりの電子‐陽電子対は、計算して見ると無数に発生することになる電荷が無限大になって計算できない → だったら、あらかじめ、その無限大を打ち消すような無限大があることにしておいて電荷計算できるようにする
というのが「くり込み」です。もうちょっとまとめると:
 計算上、不都合なことが起こる→だったら、計算上、それを打ち消す工夫をして、計算ができるようにしてしまおう
というわけです。どこまでも「計算上の都合」です。
 つまり、実際に電子が一個あるだけで無限大の数の電子‐陽電子対が湧いたりしているところは観測されていない。あくまで、計算してみると無限大の数の電子‐陽電子対ができてしまうということです。それが実際の観測結果と合わないので、計算のほうを工夫して実際に合わせる。
 それは、いま1万円あるはずなのに、手もとに1000円しかないから、9000円の辞書を買って、すぐに電車内に置き忘れたことにして計算を合わせる、というのとたいして変わりません。もちろん消えた9000円はどうなったかというと、それだけ同人誌を買ったりしているわけです。……いや、まあ、そういうことにしておきましょう。
 そのとき、「辞書を買って、すぐに電車内に忘れるとは不自然だ」と考えて、「じつは同人誌を買ったのではないか?」と厳しく追及するのではなく、「辞書を買ってすぐに忘れたことにすれば計算が合うじゃないか、そして計算が合えばそれでいいじゃないか」というのが「くり込み」なのです。
 それって、「正しい」方法なの?
 科学では「正しい」のです。なぜなら、計算した結果が観測結果に合うから。
 科学の理論というのは、理論で計算した結果で観測結果を説明するから意味がある。
 「無限大」の個数の電子‐陽電子対なんてあるはずがないし、それを打ち消す「無限大の電荷」なんてものはさらにあるはずがない。しかし、「あるはずがない」ことにこだわっても観測結果を説明できる理論は作れない。それよりは、「あるはずがない」ことを仮定しても、観測結果を説明できる理論のほうが好ましい。
 科学の「正しさ」というのはそういうものなのでしょう。
 これは特殊相対性理論の仮定でもそうで、「光に向かって走っていても光から逃げる方向に走っていても光の速度は同じ」というのは、日常的感覚からするとヘンです。
 光は波だと言っても、たとえば水面に起こる波なんかは追いかけていくと遅く見えるし、向かって行くと速い。だからサーフィン(波乗り)ができるわけで、だれにとっても波の速度が同じだったらサーファーがどんなにがんばっても波に置いて行かれることになります。サーファーにとって波が止まっているに近い状態だから乗れるのであって、サーファーにとっても波の速度が岸から見ているのと同じだったらどうにもしようがない。
 なのに、なぜ光(電磁波)だけは違うのか? 「なぜ」の答えはわからない。つまり「なぜ」光の速度だけはどんな観測者から見ても一定なのかはわからない。
 でも、地球の自転の速度で光の速度が受ける影響(自転の逆方向=東から西への光は、自転が光に向かって行くから速く観測され、自転の方向=西から東への光は遅く観測されるはずだと想定した)を検出しようとしてできなかったマイケルソン‐モーリー(モーレー)の実験の結果とか、光の速度が定数として組み入れられているマックスウェルの電磁方程式とかは、「光に向かって走っていても光から逃げる方向に走っていても光の速度は同じ」という仮定のほうがうまく説明できる。だから特殊相対性理論の仮定は「正しい」。むしろ、それが「正しい」ならば、時間と空間をどう説明すればいいかを考えたのが特殊相対性理論だということになります。
 同じことで、「無限大で無限大を打ち消す」というむちゃなやり方でうまく計算が合うならば、それで「くり込み理論は正しい」ということになる。それが物理学の考えかたじゃないかと思うのですが。