猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「第九」つづき

 この前(1月5日)、フルトヴェングラーベートーヴェン「第九」(合唱付き)を聴いてから、別の演奏も聴きたくなって、カラヤンの1983年録音盤を引っぱり出してきて聴いた。
 フルトヴェングラーの演奏(バイロイト「第九」)の印象が残っているうちに聴くと、ともかくカラヤンのほうは、第一楽章から速いし、しかも最初からオーケストラ(ベルリンフィル)が全力で飛ばしている。「こんなので最後まで息が続くのかいな」と思うのだが、そこはたぶんスタジオ録音の強味なのだろう。音も明快で、私のように音の聴き取りのまるきりだめな人間にも対旋律もくっきり聞こえるし、「ベートーヴェンはこういう曲を書いたのか」というのがよくわかる録音だった。オーケストラの制御も行き届いている。フルトヴェングラーと同じように、第四楽章の合唱の最後のところからずっと盛り上げて、速度も上げるのだけれど、フルトヴェングラーがオーケストラが合うかどうかにかまわず全力で終幕に向かって突っ走るような印象を与えるのに対して、カラヤンはオーケストラの音がきちっと合う限度で速度を制御しているのがよくわかる(このへんオーケストラの資質にもよるわけで、いちがいに指揮者のせいばかりとは言えないが)。
 フルトヴェングラーの演奏を聴き慣れたひとには、カラヤンの演奏は最初から一様に力が入っていて華美で薄っぺらに聞こえるのだろうし、逆にカラヤンの演奏を聴き慣れたひとにはフルトヴェングラーの持って行きかたはいかにもわざとらしくものものしく聞こえるのだろう。
 「第九」はこれまで「特別な音楽」という感じがしていて、あんまり聴いていなかったのだけど、今回、繰り返し聴いてみて、大げさに言うと「魅力を再発見した」というような感じになっている。他の指揮者の演奏も聴いてみようといま思っている。
 で、5日に書いた妄想のつづきなのだけれど、第一楽章・第二楽章・第三楽章のテーマから第四楽章への「つなぎ」がまだなんか機械的な感じがするんですね。合唱部分に対してそこまでの楽章が「序曲」になっているという構成ならばそういう構成でもわかるのだけど。合唱の位置づけもいろんな解釈のできそうなところで、合唱が「本番」と見るのか、それとも合唱全体がその前に器楽で提示されている旋律の主題に対する「変奏」と見るのかで、この曲の合唱の位置づけも変わってくるように思う。
 時間があるときに本を探して調べてみようかな……。って「時間があるとき」っていうのがなかなかないんだよね。