猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「網野史学」について

 買って以来、ずっと読んでいなかった(本棚の上のほうにしまっておいたら、新潟県中越地震のときに落ちてきたのだ)網野善彦『日本中世都市の世界』(筑摩書房)を読む。本が出たのは1995年だが、一般向けの代表作『無縁(むえん)公界(くがい)(らく)』執筆前後の「都市」史の論考(1970年代後半〜80年代前半)が中心で、「無縁・公界・楽」論形成過程をかいま見ることができる本――といった感じだろうか。
 網野氏は、有名になって本をやたらたくさん出すようになってからも、きちんと自分で史料に目を通す歴史家であることをやめなかったひとで、批判するにしてもその点は押さえないといけないと思う。一方で、着実に史料を読んでいる歴史家にとっては、網野氏の自由奔放な文明論的発想を理解して批判するのがもしかすると難しいかも知れない。いろんなことを言ったひとなので、ツッコミどころは多いと思うのだけど、きちんと批判するのがあんがい難しいひとなのかも知れないと思った。
 で、そのことを認識したうえで、日本中世史専門家でない立場から感じたことをいうと、網野氏の言うように「無縁・公界・楽」という概念がほんとうに「自由(と平和)」に相当するのだとしても、さらに進んでその意味を考えなければならないんじゃないかということだった。「無縁・公界・楽」の世界は、たしかに中世にその時代の「中心」となっていた社会(朝廷‐武士‐農民の社会)から隔てられているという意味では「自由」な空間なのだけれど、それは餓死や身の危険と隣り合わせだったり、その世界にはその世界の苛酷な規律があったりしたという。いわば「裏社会」的な性格も持っていたらしく、それはやはり中世・近代ヨーロッパの「自由」とは違いがあるように思う。また、明治維新後、近代になってからの日本社会で「自由」として追求されたこととは内容の面で大きな落差があるようにも思うのだ。もちろん、一方で、「日本社会にはヨーロッパのような自由はなかった」という見かたに対して、「日本社会には日本にオリジナルの自由のあり方があったのだ」と論証しようとする網野氏の姿勢には共感したうえでの疑念なのだけれど。
 それに、もしこの不安定さ・苛酷さと隣り合わせの「無縁・公界・楽」という概念が「自由」に通じるのだとすれば、私たちの自由ももしかすると不安定さと苛酷さとじつは隣り合わせなのかも知れない。「自由」ということは、ネットワーク社会・監視社会化の流れや、アメリカ合衆国の「自由と民主主義を押しつける戦争」の展開というような事態もあって、いまいろんなところで問題になっているわけだけれど、その「私たちの時代の自由」を考えるためにも、この網野氏の「無縁・公界・楽」論は十分に示唆に富んだものとして活用できるのかも知れないと思った。