鈴木由美『中先代の乱』について(6)
ところで、この本では、中先代の乱は、その直前に起こった西園寺公宗(きんむね)陰謀事件との連携があった、としています。
西園寺家というと、ひとによって非常にイメージの違う一族で:
(1)中世史を学んでいる人、中世史ファンにとっては、西園寺家というと、鎌倉時代、関東申次(もうしつぎ)という役職を務め、院・朝廷と幕府との連絡役となり、鎌倉時代の天皇の皇后を輩出してたいへん権勢を振るった一族です。
つまり、院・朝廷の超エリートで、親幕府政策・親北条氏政策をリードした名門ということになります。藤原氏の一族で、摂家に次ぐ「清華(せいが)」という家格をもっていました。
(2)近代史の人にとっては、政友会総裁で、二度首相を務め、長州・陸軍閥の桂太郎とともに「桂園時代」を実現し、後に「最後の元老」となった西園寺公望(きんもち)です。鎌倉時代の名門西園寺家のはるかな子孫です。この公宗の時代からずっと「公(きん)○」という名を受け継いでいるのですね。政党の総裁から首相、元老ですから、たいへん権勢を振るった人ですが、同時に戦前日本の「憲政」を支えた人でもあります。
(3)そして、『究極超人あ~る』のファンにとっては、もちろん西園寺まりい・えりか姉妹。
春風高校でたいへん権勢を振るった一家です。
それは、こういう家柄ですから。
えりかちゃんは般若心経が暗唱できて当然なのです(このネタいま何人に通じるだろう?)。
で、ここは中世史の話なので、(1)です。
それで、鎌倉時代中ごろからの天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれていました。
後嵯峨天皇の皇子のうち二人が皇位につき、そのうち兄の後深草天皇の子孫が持明院統、弟の亀山天皇の子孫が大覚寺統です。
一般的に、持明院統が親幕府・親北条氏、大覚寺統が比較的反幕府傾向が強いと言われます。
北朝の系統の光厳上皇・光明天皇が持明院統です。
で、後醍醐天皇はいちおう大覚寺統なのですが、じつは大覚寺統本流ではありません。
大覚寺統本流は後醍醐天皇の兄の後二条天皇なのですが、わりと若くして亡くなり、その子の邦良親王も若くして亡くなっているので、この時代、大覚寺統本流は無力な存在になっていました。ちなみに、南北朝対立が始まると、大覚寺統本流は京都に残ります。したがって、北朝側が「両統迭立」を続ける気ならば北朝の皇位が大覚寺統本流に回ってもよかったのですが、現実にはそうはなりませんでした。
後醍醐天皇は、持明院統とも、大覚寺統本流とも違う、後醍醐天皇独自の「皇統」をうち立てようとしたのです。
で、西園寺公宗は、持明院統の上皇を奉じてクーデターを企てたとして、建武2(1335)年6月(旧暦)、建武政権側の楠木正成・高師直に逮捕されました。
最初にこの二人の組み合わせを知ったとき、私は「なにこの組み合わせ?」と思いましたよ。
楠木正成といえば後醍醐天皇の忠臣として知られています。
それに対する高師直は、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の「執事」で、後に尊氏の下で権勢を振るって「観応の擾乱」を引き起こす人物です。
『仮名手本忠臣蔵』では、同時代の政治批判になるのを避けて、史実の吉良上野介(義央)に当たる役がこの高師直になっています。悪役の印象がとても強い(なお、高師直については、『観応の擾乱』の亀田俊和さんによる伝記があります)。
でも、当時は、足利尊氏も高師直も建武政権に仕えて積極的に活動していたわけですから、この組み合わせは自然です。
この西園寺公宗陰謀事件とほぼ同時に北条時行決起事件、つまり中先代の乱が起こっているので、この両者には連携があったかどうかが問題になります。
著者の鈴木由美さんは連携があったとする説です。
その根拠の一つは、時行の決起を受けて、本来は身分制度的に死刑にできない西園寺公宗が政権側によって殺害されていることです。
ただ、この建武政権による事実上の処刑は、時行が鎌倉を占領し、関東・信濃から駿河・遠江あたりまで勢力を拡大した時点(8月2日)でのことで、時行の勢力が最も大きかった時点のことです。「時行に味方する者に公宗の身柄が奪還される→京都でも公宗を担いだクーデターが勃発して時行と連携する」という流れを政権側が警戒したということまでは言えるでしょう。しかし、そういう情勢下ですから、ほんとうに公宗が事前に時行と連携していたかどうかがかえってわかりません。危機感を持った政権側の「警戒のしすぎ」の可能性もあるからです。
また、著者も触れているとおり、この「処刑」は、足利尊氏が三河へ出発する日に行われています。尊氏の出発が、尊氏の独断専行ではなく、建武政権内のある程度の合意のもとで行われたとすれば、足利軍が不在で京都の警備が手薄になる前に、不安な要素である公宗を排除しておこうということだった可能性もあります。
これは、前に書いた、尊氏による時行討伐の遠征自体を後醍醐天皇が認めていなかったのか、それとも後醍醐天皇が認めなかったのは征夷大将軍の称号だけで、遠征自体は認めていたのか、という点に関係しますが。
いずれにしても、この点では、「建武政権が公宗と時行の連携を恐れた」ということは言えても、ほんとうに連携していたかどうかは不明、ということになるのでは、と思います。
そこで、この問題の検討は、この次に続きます。