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鈴木由美『中先代の乱』について(4)

 鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)には、中先代の乱の後、北条時行やほかの北条一族がどうしたかも描いてあります。
 中先代の乱後、北条時行南朝側で戦った。
 しかも、ほかの北条一族(北条与党)の反乱も南朝側で戦った。
 でも、南朝って後醍醐天皇で、後醍醐天皇鎌倉幕府全面否定、とくに北条氏全面否定だったんじゃない?
 なんでそっちに味方するの?

 著者も紹介しているように、『太平記』には、時行が後醍醐天皇に赦免を求めたときのことばが載っています。父の高時が後醍醐天皇に討伐されることになったのは高時個人の問題だが、尊氏の行いは北条氏に対する裏切りで、絶対に許せない、というものなのですが。
 なんか、こう……。
 後醍醐天皇にも尊氏にも味方したくないけど、どっちかというと尊氏の「許せない度」のほうが上だから、という苦渋の選択なのか?
 それとも、ほんとうに、後醍醐天皇が高時を討伐したのは当然、と、わだかまりを抱いていなかったのか?

 どうも「苦渋の選択」のほうではなさそうです。
 時行はその後は一貫して南朝側で、「正平の一統」当時の鎌倉攻撃に参加して敗れて命を落としています。時行の「南朝に味方する!」という決意は強かったと見たほうがいいでしょう。「苦渋の選択」だったら、情勢に合わせて迷ってよさそうなものですが、そういう形跡はありません。また、ほかの北条一族も同じ選択をしている。「苦渋の選択」だったら、ほかの北条一族の対応も割れそうなものなのに、一致している。ということは、やはり、わりと強固な決意を持って南朝に味方した、ということでしょう。

 江戸時代には、前の時代の最高支配者である足利氏の子孫も織田氏の子孫も徳川体制の下に組み込まれて明治を迎えました。しかし、足利体制には、前の時代の最高支配者である北条氏を支配下に組み込む意思はなかった。
 第二代将軍の足利義詮は「母は北条氏、祖父の母も北条氏」という血筋なのに。
 それでも、足利体制が、鎌倉時代末から南北朝時代までの敵対勢力に対しての許容度が低いのは確かだと思います。南朝の子孫(「南朝皇胤」)についても、足利義満が「両統迭立」(北朝の子孫と南朝の子孫を交替で天皇にする)と約束した手前、しばらく存続させますが、第六代将軍足利義教の時代に「みんな僧にして子孫を残させない」という政策に転換します。
 足利体制の側が「北条氏の存在は認めない」という政策を明確に採っていたから時行や他の北条一族は南朝を選択するしかなかったのか?
 それとも、足利体制の側はもっと柔軟だったけれど、時行や北条一族の側のプライドが「足利なんかの手下になってたまるか」と意地を張ったのか?
 それはわからない。
 わからないけれど、この点は、とても重要な問題につながっているのではないかと私は感じます。

 

 ※「鈴木由美『中先代の乱』について(4)」が重複(同じものを二回掲載)してしまいましたので、先に掲載していたほうを削除しました。