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鈴木由美『中先代の乱』について(8)―光厳上皇像の転換―

 この本の大きな特徴の一つは「意欲的で積極的な光厳上皇」像を打ち出したところでしょう。
 何に意欲的で積極的だったかというと、持明院統の存続と安定について、です。

 従来、光厳上皇というと、落ち着いていて、無欲で、まわりの情勢に振り回されて一生を送った人格者というイメージでした。積極的で、活動的で、どんな逆境も自分の力でひっくり返してみせるという自信家・野心家の後醍醐天皇とは対照的な人物とされてきました。
 21世紀に入って、伝記として飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)と深津睦夫『光厳天皇』(ミネルヴァ日本評伝選)が刊行され、それがどちらも「落ち着いていて、無欲で、人格者(でキャラの強いヒーローたちに振り回されて一生を送った)」という人物像を描いているということがあります。
 実際、最後には、京都の街区からは遠く離れた地に隠棲して禅の修行を積み、「一禅僧として葬ってほしい」と言い残して亡くなったことなど、この世の権力に固執しない枯淡の極致という生きかたで、しずかな強い印象を残します。
 六波羅探題陥落のときには、六波羅探題のメンバーとともに東国へ脱出しようとして逃げられなくなり、いっしょに来た武士たちが集団で自害する現場に居合わせたとか、「観応の擾乱」で足利尊氏南朝に降伏したとき、形勢を逆転されて不利になった南朝側に連れ去られ、南朝の監視下で不自由な生活を送らなければならなかったとか(「地獄を二度も見た」というのはこの二つの体験を指します)。常に巻き込まれてひどい目に遭っている。
 こういうイメージは『太平記』からあります。有名なのは、光厳上皇が法事で遅くなって、夜、牛車(ぎっしゃ)で帰ろうとしていたら、酒に酔っていた足利幕府の大名の土岐頼遠に「なに? 院だと? イヌなら弓で射て落としちまえ!」と絡まれて、悪質なあおり運転で車を破壊されて道に投げ出された、というエピソードでしょう。その結果、頼遠は、足利尊氏や弟の足利直義に顔のきく偉いお坊さんに頼んで許してもらおうと工作したけれど、あまりに悪質で罪は重いということで打ち首になってしまいました。
 『太平記』は、歴史物語であるとともに、いろいろな教訓を盛り込んだ教訓物語という面があります。ここでも、とても時代を先取りして、飲酒運転やあおり運転をやってはいけない、という教訓を盛り込んでいるんですね! (たぶん違う)。
 政治権力を手放してからは、お寺に参詣に行き、一般人扱いされて苦労しながら、吉野の山奥(賀名生。五条から十津川沿いに新宮に行く途中)の南朝の宮廷に到達して、南朝側の後村上天皇と対面した、というエピソードも『太平記』にあります。事実とは考えられない、ということですが、「太平」の時代を先取りしようとする『太平記』大詰めの印象深い場面です。
 あと、やはり無欲で人格者の花園天皇に養育され、「太子をいましめる書」というのを与えられ、人格者教育を受けていた、というエピソードもあります。花園天皇にこういう人格教育を受けている以上、やっぱり無欲でまじめで人格者に違いない、と。

 ただ、そういう「無欲な人格者」のイメージにそぐわないエピソードも、以前から知られていました。
 その一つは、息子の崇光天皇天皇にした後(光厳上皇の弟であった光明天皇から譲位)、「じつは花園天皇の皇子ということになっている直仁親王は私の子なので、天皇の位はこの直仁親王とその子孫に継がせ、崇光天皇の子孫は直仁親王の子孫に仕えるように」と言い出したことです。
 「この子はこれまで叔父さんの息子ということになっていたけど、じつは私の子なので」というのは、けっこうびっくりします。「人格者」のイメージには非常にそぐわない。
 しかも、これまで自分の子として育ってきた兄の天皇に、「あとで譲位して、天皇の位を自分の子孫に伝えるのはあきらめてね」と言うっていうのは……どうなの?

 「ある皇子を即位させ、その後、弟を即位させる」ということ自体が、だいたいトラブルのもとでした。
 平安時代には、村上天皇の次の世代に、冷泉天皇に続いて弟の円融天皇皇位に就けたら、皇統が冷泉天皇系と円融天皇系に分裂した。このときは、藤原道長という、とても意欲も能力もあるひとが出て、両方の皇統と関係(娘を天皇に嫁がせる)を作って円融天皇系優位でまとめます。ところが、道長の子の藤原頼通は、娘を天皇に嫁がせたものの天皇になるべき男の孫が生まれず、円融天皇系の天皇後朱雀天皇と、冷泉天皇系の皇女(禎子内親王、陽明門院)とのあいだに生まれた後三条天皇皇位を嗣ぎ、この対立はいちおう解決しました。
 そのあと、鳥羽上皇が、子の崇徳天皇から弟の近衛天皇に譲位させ、これがおおもとの原因となって保元の乱が起こった。このときは、近衛天皇上皇にならないまま亡くなってしまい、いろいろややこしいことになりつつ、最終的に平清盛が登場して平清盛が支持する高倉天皇の系統で決着します。
 後嵯峨上皇も、先に皇位に就けていたお兄さんに「譲位しなさい」と言って弟を皇位に就けたために、この兄弟がそれぞれ持明院統大覚寺統の祖になって、「皇統分裂」という事態になりました。
 同じような危機はじつはその後の大覚寺統にもありました。大覚寺統後宇多上皇亀山天皇(亀山法皇)の子で、自分の子の後二条天皇を即位させ、さらにその次の大覚寺統側の皇位継承者に後二条天皇の子の邦良親王を立てようとしていました。これが大覚寺統の本流です。
 ところが、後宇多上皇のお父様の亀山法皇が、自分の末の子の恒明親王天皇にすると言い出したのです。もしこれが実現すれば、亀山法皇後宇多天皇後二条天皇邦良親王という「本流」は本流から外され、亀山法皇恒明親王という「新たな本流」が生まれるはずでした(しかも邦良親王からは一挙に祖父の世代まで戻ることになります)。
 ところが、そのあと亀山法皇が亡くなり、後宇多上皇大覚寺統の最長老になったため、恒明親王大覚寺統の「新たな本流」になることはできませんでした。
 しかし、この「恒明親王を後継者に」運動のために用意された資産(主として荘園群)は、後宇多上皇が予定した大覚寺統本流(後二条天皇邦良親王)ではなく、後二条天皇の弟の後醍醐天皇と、その子の世良親王を「大覚寺統の新たな本流」にするための運動に受け継がれます。亀山法皇が自分の末の子を天皇家の本流にしようとしたことが、後醍醐天皇がその子孫を天皇にするという動きの間接的な出発点になっているのです。後醍醐天皇の子孫が天皇になるというのが南朝ですから、つまり南朝の出発点はそこにあったわけです。
 なお、世良親王は1330(元徳2)年に亡くなり、皇太子になることはできませんでした。しかし、この、世良親王天皇の位を嗣がせようという運動の中心に貴族の北畠親房がいて、後醍醐天皇の没後、北畠親房が強硬派の一員として南朝を支えることになります(以上は岡野友彦『北畠親房ミネルヴァ日本評伝選によります)。

 こういう混乱を見ているのに、なお「直仁親王は私の子なので、お兄さん(崇光天皇)は位を譲り、以後、直仁親王の子孫を天皇にするように」というのが、「無欲な人格者」なの……?
 それに、自分を養育してくれた叔父さんの花園上皇に「こんど、男の子産まれたんですけどね。うちの子として育てると差し障りがあるから、叔父さんの子として育ててくれません?」というのは……。
 なお「直仁親王はじつは私の子なので」という点は、他の人に見せるはずのない文書にもそう書いてあるので、確実だと思われています。

 この点は、これまでもやっぱり違和感が感じられていたようで。
 もともと自分を育ててくれた花園天皇への光厳天皇の恩返しではないかという説がありました。花園天皇は、後伏見上皇の子である光厳天皇量仁親王)が成年に達するまでの「中継ぎ」で、子孫に皇位を伝えられないことが最初から決まっていました。しかし、花園天皇は、光厳天皇にとっては育ての親です(実の親=後伏見上皇も健在なんだけど)。そこで、その恩に報じるために、自分の子を花園天皇の子として扱い、その子孫に天皇位を伝えることで、ともかくも花園天皇の子孫に天皇の位が伝わった、というかたちを作ろうとした、という説です。
 最近では、崇光天皇よりも直仁親王のほうが血縁が足利氏に近いので、直仁親王の系統に皇位を伝えることで足利氏の支持を取りつけようとしたのではないか、という説も提唱されています。
 また、直仁親王の誕生は1335(建武2)年で、中先代の乱のころに懐妊がわかっているので、生まれたのはたぶん足利尊氏が九州へと転戦して京都からいちばん離れていた時期でした。つまり、京都では後醍醐天皇の勢いが強い時期です。
 この時期に、直仁親王光厳上皇の子として育てると、兄の(後の)崇光天皇とともに出家させられてしまうなど皇位を継ぐ可能性を消されてしまうことを危惧した可能性もあります(「退位してから出家」ならば院政を行えるが、先に出家してしまうと原則として天皇になれなくなる)。そこで、「保険」として直仁親王花園上皇の子にしたのではないかとも思います。花園上皇の子は皇位を継がないことになっているので、後醍醐天皇からのチェックも甘く、そのほうが安全、ということです。
 ただ、これは私の推測で、まったく根拠はありません。

 また、持明院統天皇はみんな無欲な人格者かというと、そうでもなく。
 光厳天皇の祖父にあたる伏見上皇は幕府に警戒されるくらいに自己主張の強い天皇上皇)でした。子孫のほうも、光厳天皇の子にあたる後光厳天皇とその子孫の後円融天皇後小松天皇と、それぞれかなり自己主張の強い天皇(というか、それぞれ権力を握ったのは院政をしている時期なので、自己主張の強い上皇)でした。
 そういう点を考えると、著者の「積極的で意欲的、ときには陰謀家の光厳天皇」というイメージは、そんなに不自然なものではありません。

 しかし。
 光厳上皇のコーディネートによって、西園寺公宗建武政権打倒のクーデターを起こし、それに連動して北条時行が鎌倉を占領、北陸地方名越時兼が統一して北陸の兵を率いて京都へと進撃、もしかすると東北南部でも結城盛広が建武政権側の陸奥将軍府北畠顕家。親房の子)を制圧……みたいな計画があったとする。
 それで、後醍醐天皇を廃位して光厳院政の実現を考えていたとする。
 光厳院政が実現したのが後の北朝なんですよね?
 で、北条時行は、中先代の乱敗北後、後醍醐天皇側・南朝側に立って戦い続けました。

 ……なんか一貫してなくないですか?

 一貫してなくていいんですよ!
 乱世なんだから。
 ほんと、乱世でなくても一貫してない人はいっぱい……いやなんでもないです!

 でも、北条時行さん、一貫はしているのです。
 「反建武」。
 むしろ、光厳上皇が、この失敗の後に「建武政権足利尊氏派」と手を結んで、時行の「反建武政権」の立場と袂を分かった。光厳上皇が立場を変えたのです。

 光厳上皇が、京都を脱出して西へと向かう足利尊氏の立場を上皇として承認し、尊氏を「反乱軍」の立場から救ったわけですが。
 そのとき、光厳上皇は、もう「正慶五年」とは言っていません。「建武」を受け入れたのです。その後、北朝院政を始めたときも「建武」のまま改元していません。
 つまり、光厳上皇建武政権を一部分認めたわけです。

 建武政権とは、後醍醐天皇+足利氏の連合政権だった。
 それが「建武政権後醍醐天皇派」と「建武政権足利尊氏派」に分裂した。
 私たちは、「足利尊氏建武政権から離脱し、建武政権に敵対した」と考えますよね?
 でも、「足利尊氏建武政権だ」、「足利尊氏こそ建武政権だ」という感覚もあった、と考えてみます((5)で論じたとおり)。
 光厳上皇は、反後醍醐天皇だったので、「後醍醐天皇派+足利尊氏派」の建武政権は否定しなければならない。だから「正慶」の元号にこだわった。
 しかし「建武政権足利尊氏派」と連合して「建武政権後醍醐天皇派」と戦うのであれば、「建武」を否定する必要はなくなる。
 北条時行が「建武」を認めないのであれば、当然、光厳上皇とも立場が違ってくる。
 時行が南朝側という立場になってからは、光厳上皇とは敵どうしになる。
 そういうことではないかと思います。