猫も歩けば...

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鈴木由美『中先代の乱』について(2)

 北条時行は、信濃諏訪大社の神官一族にかくまわれていました。この時行が反乱を起こし、信州から碓氷峠を突破して荒川の西側を南下、小手指、府中(武蔵国府)から多摩川を渡って鎌倉に至っています。現在の鉄道線路は東京(江戸)を中心にできているので、「鎌倉に急ぐために不便なところを無理に直線ルートで行っている」という感覚を持ちますが、当時はこれがメインルート(「鎌倉街道」の一つ)なのだそうです。
 また、「諏訪からだったら、あずさに乗って立川で南武線に乗り換えて、小田急線に乗り換えて藤沢に出れば? わざわざ北陸新幹線ルートをとる必要ないじゃん?」と思うのだけど(あーこんな夏の天気のいい日には藤沢とか鎌倉とか行きたい! 東京都在住だからダメだけど)。つまり、信濃から甲斐に出て、小仏峠を越えて、高尾山の麓から南下したほうがずっとショートカットできるのに……これは、なんでなのかな?
 碓氷峠アプト式に乗ってみたかったとか、電気機関車の補機を連結するのを見たかったとか、峠の釜めしを買いたかったとか、ではないし。
 一つは、関東に出る前段階に信濃守護との戦いがあり、そのために諏訪から北上して、そこから東へ向かったから、いまの中央線ではなく北陸新幹線ルートになった、ということでしょう。
 また、現在の群馬県から群馬‐栃木県境地帯(両毛地方)は、新田氏も含めた足利氏の本拠地で、そこを通過することに何か意味があったのかもしれません。ただ、時行の進撃ルートを見ると、足利・新田一族の本拠地よりも西を南下しているようですが。
 このルートは、この「乱」の少し前に新田義貞鎌倉幕府打倒のために南下したルートでもありますし、このルートをたどると行軍への参加者を募りやすい、ということがあったのかもしれません。
 この本によれば、時行の信濃での挙兵の日は確定できないようです。6月23日~7月14日のあいだのどこかで、現在の7月後半から8月前半です(著者は6月23日を有力と見ているようです)。7月18日には関東に入っています。現在とは気候が違い、気候が寒冷になり始めた時期ではありますが、夏の関東平野、暑いぞ! 甲冑を身につけていたりするとさらに暑い。熱中症予防情報とかが出て合戦禁止だ! まあ、その686年後、そんな暑い夏の関東平野で国際的な大規模なスポーツ大会をやってるみたいですから、いいのかもしれませんけど。建武年間には「コロナ禍」がないからまし、かというと、現在よりもずっと衛生環境は悪かったわけですから、そんな時期の夏に合戦で負傷したりするとめちゃくちゃきつい。
 その暑い関東平野を一週間ほどで南下し、7月24日には時行は鎌倉に入っています。電車のない時代に、しかも合戦しながらこのスピードなので、速い。24日というのは、著者鈴木由美さんによる同時代史料からの推定で、『梅松論』・『太平記』などの有名文献では日付が違っているようですが、長くても10日ぐらいで踏破しています。
 鎌倉には、建武政権後醍醐天皇)側の「鎌倉将軍府」があり、尊氏の弟の足利直義が実質的に鎌倉将軍府を率いていたのですが、鎌倉で決戦することは避けて、足利氏の本拠地の一つである三河(愛知県東部。後に徳川家康の出身地になる)にまで退去します。
 ここで、京都にいた足利尊氏後醍醐天皇に願い出て、北条時行討伐のために出発します。尊氏が征夷大将軍任官を望んだのを後醍醐天皇が拒否した、というのはよく知られていますが、尊氏が軍を率いて東へ出発することは少なくとも黙認はしていたようで、征夷大将軍後醍醐天皇の皇子の成良親王としたうえで、尊氏を「征東将軍」に任じています。
 尊氏は8月2日に京都を出発して、三河で弟の足利直義と合流し、浜名湖の西岸、遠江三河国境(現在の静岡‐愛知県境)の橋本で時行軍を撃破して東へと進撃しました(引用されている『梅松論』の記述だと、時行側が浜名湖を渡って西に出て拠点を築いたので、尊氏軍の一部が浜名湖を逆向きに渡ってその退路をふさぎ、時行軍を孤立させたように読めます)。これが8月9日なので、京都出発から一週間後、そのまた約一週間後の17日には各所で合戦をしながら箱根を越えています。こちらも、合戦の頻度は低いものの、けっこう高速という印象です。
 ま、当時もいまも軍隊というのはメシを食いながら移動する集団なので、兵糧がどれだけもつかを考えると、身体的にきつくても移動は速いほうがよかったでしょう。また、地元民としても、軍隊がゆっくり移動すると、物資をさらって行ったりトラブルを起こしたりと迷惑なので、たぶん軍隊はサッときてサッと去ってくれるほうが歓迎だったでしょう。ただ、「うちに参加すると、戦いに勝ったら所領が増えますよ」みたいな宣伝はしながら進む。それで勢力は増大する。勢力が増大すると食うメシの量も増えるので、やっぱり高速移動のほうが有利だ。だから、勝ちそうな勢いの軍隊なら、宣伝しつつ高速移動したほうがよかったのでしょうけど。
 ただ、尊氏軍の西からの鎌倉攻撃はそれほどたやすくはなかったようで、18日に相模川(当時の流路は現在よりも東寄りで茅ヶ崎市内か)、19日にも辻堂・片瀬原(江ノ島の西側あたりでしょう)で合戦があり、19日に時行側の主要メンバーが鎌倉で自害して時行側の敗北に終わるという流れです。たしかに箱根から2日で鎌倉に入っていますが、時行側の抵抗もけっこう厳しかったらしい。時行はこのとき脱出に成功しています。
 ところで、時行は著者の推定で1329/1330年(元徳元年12月)生まれ、もっと歳上だとしても、兄の邦時が1925年年末(正中2年11月)生まれなので、1926年以後の生まれになります。鎌倉幕府滅亡が満年齢で3歳、この中先代の乱のときには満年齢で5歳です。最大限に歳上の推定をとっても満年齢で9歳です。それで、敵の本拠である三河との国境まで軍を派遣して戦おうという積極策は時行自身の意思ということで。
 しっかりしている、と言うべきなのか。
 ともかく、時行の発言が戦略を決定するくらいの影響力はもっていたようです。
 ただし、この記述は『太平記』のもののようで、『太平記』は史実をかなり反映しているもののフィクションとしての面も確実にあるので、やや注意は必要です。著者の鈴木由美さんは、その直後の大風の記述を同時代史料と照合して、少なくとも大風が史実だったことを証明していますが、時行の発言が時行軍の行動を左右したかは、いちおう別問題ではあります。
 なお、この同時代史料というのは、高幡不動の文書ということです。高幡不動文書と言えば、この少し後、常陸茨城県)での北畠親房vs高師冬の戦いの厳しさを伝える胎内文書も有名です。うむ。動物園に行く乗換駅とか、京王線から多摩モノレール(「賜物レール」ってなんじゃい?>うちの辞書)への乗換駅とかのところにあるお寺というだけでなく、中世前期からの由緒あるお寺なんだな。